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アーユルヴェーダの理解(2)
〔2011年4月18日〕
『アーユルヴェーダの知恵』の第3章「『自分でない自分』を知る」は、アーユルヴェーダ医学の脈振から始まる。
アーユルヴェーダ医学の診断方法、診断基準とその背後にある診断の考え方を著者の理解のしかたのなかで述べています。大したものです。
理論ではなく、実践(行為)のなかに蓄積されている知見です。
一般に美術、音楽、演劇などの芸術、職人的な技のように身体表現やからだにつける技術においては、文字表現(理論表現)は限られ、上手く表現しづらいものです。
文字や言葉で表現すると実際とは離れたものになりやすいという感覚を持ちます。
ここの脈振の紹介はこの言葉による表現の難しさを考慮した方法のように思います。
脈振という医療行為のなかにアーユルヴェーダ医学の方法の奥深さを示唆しますが、著者の理解は届きません。
なぜなら著者の脈振のレベルが届いていないからです。言葉では伝えられない、自らの感覚レベル・技術レベルで到達するしかないのです。
仮に脈振のレベルが到達をしても、それを言葉で表現するのはまた至難の業になるのでしょう。
実践(行為)のなかに蓄積されている知見はこのような性質を持つと思います。
だから非合理的であるとか、科学的ではないというのは科学の側のフライイングになるでしょう。
大リーグのイチロウ選手のバッティングを言葉で表現しようとしても彼の実際のバッティングは表すことはできません。
アーユルヴェーダ医学のベテランの脈振もまた同じなのです。
言葉にできること、論理的な認識方法以外の事物・事態の認識方法を認めていいのです。
西洋医学や科学において文字表現や数式表現ができたとしても、それらは周辺の感覚表現や技術表現によりカバーされるものです。
感覚やそれを生かした技術のなかに、人間がとらえ、理解したことは蓄積されています。
感覚や技術を通して伝承される知見の存在は無視できないのです。
もし科学が急速な発展をしながらも、ある種の行きづまりにあるなら(医学はそのような状態にあると考えます)、この科学の周辺にある要素を取り入れることで科学を再生できるのかもしれません。
ニュートン力学がアインシュタインらの量子力学により相対化されたように、科学も相対化される時代を迎えつつあると思います。それが科学の再生に結びつくかもしれません。
80ページから104ページのアーユルヴェーダのドーシャ理論と3つの体質(Prakriti)=ヴァータ(Vata)、ピッタ(Pitta)、カパ(Kapha)の説明は、著者の理解のなかで言語化されたものです。
後日また振り返る時期がくるでしょう。
それは科学の外側に、より大きな構造を取り入れているか、少なくともそういうものを反映しているように思えます。
私にはそれがシンクロニシティと同一とはいえないまでも、つながっていく先にあるのではないかと思えるのです。
その場合のシンクロニシティとは、まだ科学としては把握できないある種の流れ(大きな「場」の働きによると思います)を、ある分野ではAの形で、別の分野ではBの形で現われます。
同じ大きな流れから生まれるのなら、現象は時期を同じくしやすいし、シンクロニシティの背景にあるといえるでしょう。
それをとらえた人には、現われた2つのことは偶然のように見えます。
ユングは「意味のある偶然の一致」と「意味のある」を加えたのは、それだけの可能性を感じ取り、そこを追及したのです。
その方面の問題意識を持つ人には形になったことをとらえやすい状態にいるのでしょう。
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