体験記・逸見ゆたか・精神的ひきこもり脱出記(5)
体験記・逸見ゆたか・精神的ひきこもり脱出記(5)
私の目からうろこを落としてくれた体験
小さな民間病院でした。病院建設のため、広く地域住民に病院債という建設債権を購入してもらい設立した一種の組合立のような病院です。
最初は、内科と外科、入院病棟くらいでしたが、今は進化して、規模も内容もすごく大きく立派になりました。
公立病院の分業労働に馴れた私は、この病院での、何でもかんでもしなければいけない働かせられ方に、大不満でした。
それまでの公立大病院の分業システムこそが現代的で、時代の先端をゆくのだ、と思いこんでいたのは一つの誤りだと分かったのは、ずーっと後のことです。
待遇の安定した公立病院にそのままいたら、私は硬直化した一つのものの見方しか出来なかったと思います。
経営も組織もユニークなその病院では、人物も非常に優れた人々がいました。
と言ってももちろん、親友になったとか、好ましい人間関係を結べたからよかった、というわけではありません。
そもそも人間関係を結ぶ力がなかったから、一か所に留まることが出来ず放浪していたのですから………。
あくまで、それらの人々は車窓から見る、後へ後へと流れ去ってゆく風景のようなものでしたが、私の心に深く焼き付けられました。
精神病院での体験も強烈でした。
今は、進歩した向精神薬がいろいろあって、さまざまな精神病も治療や軽快の明るい可能性が出てきました。本当に嬉しいことです。
でもそれは最近になって実現したことで、私が勤務した頃は、向精神薬はコントミンやウインタミン程度で、今は滅多に使われない電気ショック(電撃療法)がたくさん実施され、そのために頭に溜った電気で痙攣発作をおこす自家発電という現象もたびたび目撃しました。
今は絶対禁じられているロボトミーという脳の手術は、それまでたびたび凶暴な発作を起こす人も、術後は子猫のようにおとなしくにこにこした人間に変貌しました。
この当時でも、この手術は一年に一回程度しか実施されず、する時は、500床もある大病院の中を風が吹き抜けるように、ニュースが伝わっていきました。
やむなく仕方なく実施するのだ、という詠嘆をこめたニュアンスを私は感じました。
高齢化が起こったのは、ずっと後ですから寝たきりの人々はほとんどなく、肉体的には元気ですから、掃除は行届き廊下も病室も気持ちよく清々していましたが、閉鎖病棟特有のすえたような臭いがしました。
徘徊する人、じーと正座したまま終日いる人、時が止まったように、同じ姿勢をとっている人、幻聴におびえて天井の一角に怒鳴りつけている人…。
第五章で述べる「思考の整理学」や「右脳開発」などの勉強をしようと私をうながしたものは、精神科病院で精神を病むということが、どんなに悲惨で深刻なものか、痛感したのも遠因になっているような気がします。
追いつめられていた
その時、私は52歳になっていました。
絶えず死にたい!という希死念慮を抱きながら、やっとここまで辿り着いていました。
けれどもぎりぎりまで追い詰められていたのです。というのは、その職場は55歳が定年です。
延長を希望すれば、続けられますが、待遇は嘱託となり、大幅に収入は減ってしまいます。
当時私は、病院の近くに家を一軒借りていましたが、少ない給料や年金で一生家賃を払い続ければ、生活の破綻は目に見えています。
避ける道は唯ひとつ、自分の家のある田舎に帰ることです。
簡単なことでした。以前から母は私の帰宅を熱望していましたから。
けれど、それこそが、私にとって最大の苦しみと不安の元だったのです。
それというのは、今暮らしている人口数万の市は、住んでいる所も職場も、人の流動がかなりあって、人との付き合いもほどほどに希薄であっても許されるのです。
しかし、田舎に帰れば濃密な人間関係が待っています。
母は、私の性格も苦悩もまったく感知しませんでした。一番身近なところにいる人間がわからないという不思議さ。
でもこの時は、母の鈍感さがありがたかった。
「田舎はいいよ……町を歩けばみんな知った人ばかりで、みんな挨拶して……みんな知り合いなんだよ……」
Yさんには、この言葉の意味するところが、私同様おわかりになると思います。
そうです。冗談じゃない、それが怖いのです!それが嫌なのです!私が好きなのは、疎外ともいえるほどの人との距離なのです。
母に説明しても、この人間嫌いはまったく理解不能のことで、大して重きをおいていませんでした。
馴れれば自然に良さがわかって落ち着くよ!というわけです。
今まで、死ぬことを先延ばししてきました。いよいよ、実行する時がきたのです。
どうやって死のうか…。確実に死にたい。苦しまずに死にたい…。鼻水たらした首くくりはいやだ。服毒?ビルからの飛び降り?
私は、母が困らないように生命保険に入りました。加入後一年以内は、お金が下りません。その間は頑張ることにしました。
外は桜が咲き、人々のさんざめく声が風に乗ってきます。
私は、その明るい外界をシャットアウトし、締め切った部屋の中で、苦しみながらごろごろしていました。
駄目な私だ! 駄目な私だ!
転機
その日いつものように——
転々と職場をかえて、私はその時、生まれ故郷ちかくの人口数万の市に住み、5百床余の病院に勤めていました。
このまま進めば私の前には、自殺かそれとも死よりも怖い灰色の時間の連続があるだけです。みじめな人生の予感におびえる日が続く中で、変化が起こりました。
奇跡のような人生の転換が起こった日は、暑くもなく、寒くもない季節の一日でした。
私は幼い頃、どの子も夢見るように、白馬の王子様が私を苦境から救い出してくれる、類の願望をひそかに持っていました。
夢は夢でしたが、人生には、平凡なー日の一つの角を曲がったとき、思いもよらない異次元世界にも似た別の人生にいざなわれる、そんな不可思議な可能性もあるのですね。
この日がそうでした。
しかし、最初その世界は甘くもかぐわしくもありませんでした。
むしろ私の心臓にぐさりと灼熱の刃を当てられたような体験から始まったのです。
その朝、いつものように顔を洗い、朝ごはんも食べました。勤めていた病院へは歩いて5分の距離でした。
住宅地の通り道には、むくげの花が咲き、斜め前の食料品店のおかみさんが、開店の準備をしていました。
小さな声で私は「おはようございます」と言って脇を過ぎました。
何もかもいつものような、けだるい一日が始まったのです。
穏やかな午後、ナースステーションには、婦長のHさんと私の二人だけがいました。
他のスタッフたちは、病室、薬局、リハビリ室などに散っていたようです。
Hサンはいつもの定位置の机にいて、窓際の机で処置用品の始末をしている私に声を掛けてきました。
気軽な世間話をするような調子でした。
「Tさん! 純粋っていうのはねえ…時に幼児性や狭量という一面を持っているんだよ……」
最初この言葉は、私を非難しているようには感じなかったので、その何気ない調子に便乗して、そ知らぬ感じで通り過ぎようとしました。
何か返事をしたと思いますが、いまは思いだせません。
やっぱり「私に忠告しているんだ!」と気づき、次にかなり人格的な深い部分に触れたことだと感じた時、顔が赤らみ自尊心が傷つきました。
その心を気取られまいと、涼しい顔をしていたと思います。
内心は言葉にならないほどのショックを受けていたのです。
この私が非難の対象になろうとは…。驚きと、いたたまらない感じでした。
本当は、この言葉こそが、暗黒の地下鍾乳洞で、何十年も出口を求めて苦しみあがいていた私に、脱出の出口を教え、道しるべとなり、小さなともし火となって、導いてくれたのです。
この言葉こそ、私のその後の人生を放物線を描いて変えていったのです。死から生へ、闇から光の世界へと。
この日から十数年経た今は、この日の意味がよく見えます。
暗黒の地下に、天使が舞い降りて、この私に“…さあ…„と手を差し出してくれたのです。
といっても、Yさんはこの私の言う意味がぴんとはこないでしょうね。
少し、我慢して聞いてください。おいおいわかって下さると思います。
Hさんは、私の問題点の要(かなめ)をたった一矢で射抜きました。
どうしてそんな神業みたいなことができたのでしよう。
彼女は、看護学校時代の一年先輩でした。私の人生への一歩の頃を知っています。
何十年後、今の病院の老人病棟で巡り合った時、彼女は大樹を連想させる人となっていました。
旅人がその木陰で憩い、小鳥たちは枝の茂みで命の歌を交し合うような。
だから居心地よく、私はめずらしくこの職場に5年もいることが出来ました。
多忙な仕事が一段落したひと時、世間話が出るときも、彼女の話はひと味違っていて、私は黙って聞いていながら、いい風に吹かれているような気持ちでした。
彼女の家庭は、当時、大家族でその中での立場は、嫁としての、一般女性とほとんど変わらない下積みの苦労がたくさんあったようです。
「私の居場所はあの家では、座布団一枚しかない……」と言うのをよく聞きましたが深刻味がなかったから、そのたびにみんなは、どっと笑いました。
たしかに現実にはそうであっても、孫悟空を手の上で遊ばせているお釈迦様のようで、真実は彼女の大地と世界なのだ、と感じたのは私だけでなかったと思います。
だから、その言葉を聞くと笑い出さずにいられなかったのです。
看護婦にありがちな、管理主義的なところは全くありませんでした。たとえば、老人病棟の面会時間を24時間いつでも可としました。
その理由として、「家族は、忙しくてなかなか来られないから、いつでも来られるように……」というのです。
家族の絆を病院の規則のために弱めまいとする彼女の姿勢がありました。もちろん病院当局の了解の上でしょうが。
そのことによって、医療や看護行為が困ることは、全然ありませんでした。
そのような大人の知恵や豊かさを持った彼女から見た私は、どう見えたのでしよう。
何十年ぶりで会い、仕事をしてみて、年輪を少しも積まなかった後輩の貧しい寒さを、やり切れなさと憐憫を交えて見ていたかもしれません。
最近になって私は、人への忠告がいかに難しいか痛感しています。
忠告が、いじめと受けとられたり、恨まれたり、人間関係がぎくしゃくしたりと、結局黙っていたほうがよい、となってしまいます。
Hさんほどの人情の機徴に通じた人が、それでもあえてしてくれたのです。
私は、今でもこの日のことをたびたび思い出します。
彼女の口調は、どうせ言っても駄目だろうけれど、といった感じの諦めと優しさに満ちた静かなものでした。
私の精神を構成している複雑なギアの一つがゆっくりと動き出しました。一番深くにある根底の精神が動き出したのです。
純粋の背中には
Yさん、貴女は私が「純粋というものは、時に幼児性と狭量という一面をあわせ持つ……」んだよ、という言葉に衝撃を受けたことを、さぞ不思議にお思いでしょうね。
無理もありません。
今だって、“あの人は純粋だ!„とか“純粋に生きている„ということは人間の生きる理想形の一つのように、日常あちこちで使われています。
それまで私は「純粋」の悪い評判を聞いたことがありません。
「純粋」ということは、“いいことだらけの生き方„と私は思い込んでいたのです。
Hさんの一言は、その単純な思い込みを一挙に粉砕したのです。
私がこの世で生きにくく、どこにも場所を見出せないのは、私が精神的で美しい純粋な生き方を求めているからだ、軽薄なふわふわした生き方を拒否し、汚濁にまみれない姿勢を守っているからだ。
そのような考えが、疲労困憊する毎日の暮らしに、つっかえ棒をし、辛うじて切なさを支えてきたかも知れません。
そう思いながら反面、私は、ああなりたくないと思った大人たち、ことに祖父母や母たちが、家族のため暮らしを支えるために、あくせく働くのを目の隅ではちゃんと捕らえていました。
そのあくせくは家族のため私のためでした。
寒い日、両手を紅しょうがのように凍えさせながら、おいしい野沢菜の漬物を出してくれたりする姿を、意外なほど鮮明に脳裏に刻んでいたのです。
私自身は、生活の垢に染まるのを拒否しながら、一面で家族の暮らしを土台から支えていた祖父母、母たちから深い感銘を受けていたのです。
また、転々と移動した職場のあちこちで尊敬できる人、欠点はあるものの愛すべき人柄の人、などなどたくさんいることも知りました。
Yさん、だから私は「そんなはずがない……純粋に生きることこそ、人間にとって最も美しく理想的なことなのだ」と反論することが出来ませんでした。
それどころか、私に向かって発せられた、この言葉は日がたつにつれ私の中で育ち発酵していきました。
閉じ込められた闇の中でうごめき生きていた私に、閃光のように打ち込まれた言葉は、相反する思いを整理し、私という実態を始めて赤裸々に見せてくれたのです。
いままで“純粋に生きている„という錯覚でごまかされていた己の姿が、真っ昼間の明るい中に引き出されました。
なんと寒々しい哀れな裸の王様でしょう。美しい生き方を念願したはずの私は、だれか一人でも幸せにしただろうか……。
では、お前自身は充実し、生きがいを感じているのか……。みんなNO、NOです。
いつも死神のように私の内部は、真っ暗な空洞だけでした。
人を恐れ、うつむきながら世の喜びや楽しみに背を向けてきました。
明るい陽光の下で人々が、話し、笑い、生きているというのに、私は戸を閉め、その世界に入れなくて震えていました。
情けない私です。
裸の王様は、社会の中で何をしてきたのでしょうか。
しぶしぶと私は過去を総点検します。
行く先々でその組織の矛盾や未整備を敏感に感じ取りました。
「Dr.キリコ」の主人公のように指導してやろう、というほどの思い上がりはなかったものの、精神的には似たり寄ったりでした。
寮の相部屋になった同僚に、そのような尖がった話題をいつも出すので、警戒され嫌われてしまいました。
当時の私は、自分自身をふくめて、社会にも個人にも、光の部分と影の多様な面が併存していることを、全く認識していませんでした。
悪い部分だけを敏感に感じ取り、怒ったり批判していました。
大人は汚い、世の中は汚い、と己が世に溶け込めない理由にしていました。
私は、今まで生きる柱の一つにしていだ“純粋な生き方„の背中に乗っている、氷のような冷たい一面にはじめて気がついたのです。
それは他人をも自分をも裁く不毛な一面を持っていました。
もしかした私が生きあぐねていた困難の元内かも知れない、と気づかされてきました。
さらにもう一つ大事なことに気がつきました。それは何十年も死を願いながら実行出来なかったという事実です。
どんなことでも二十年も一筋に念願していれば、何らかの成果が上がるはずです。
四十年も願って実現しないということは、今後も絶対に実現しないということです。
私はこの二つの事実をはじめて冷静に検討しました。死の世界へ入る寸前で、私はくるりと百八十度向きを変えました。
生きるのだ! 今までの世界から抜け出よう。生きる喜びを実感できる人間になろう。人間を怖がることから脱皮しよう。
外へ青空の下へ、街へ、人々の中にこだわりなく出れるようになろう。
何かを探して・奇妙な世界旅
死の世界から私は、百八十度歩む方向を変えました。
もう死のうとは絶対考えない! そう心に決め、炊に「たとえ何十年かかろうと、私はこの苦痛から抜け出よう。
死ぬ30分前でもよい、この世に生まれてよかった!と思えるように、これから生きよう…」。
そう決心してみると驚いたことに、ある目標をしっかりと決めて生きる、ということは私の人生で初めてだと気がつきました。
目標が出来たことで、私の不安は少し治まりました。
元気も出てきました。何となく背筋がまっすぐに伸び、呼吸が楽に出来るようになりました。
とは言っても何をしてよいかわかりません。行こうと気ははやるものの、さてどこへ行ったらいいのでしょう。
旅立つ支度を整えたものの、私の進む未来の方向は、乳色の靄がすっぽりと立ち込めています。
自分なりに精神医学や心理学なども勉強しました。
うつ気分は始終あるし、死にたい願望も、いままでの人生に絶えず付きまとっていたものの、うつ病でもないと思いました。
私が医師にもカウンセラーにも、頼ることをまったく念頭に置かなかったのは、今と違いこの種の精神状態が、世間からも医学界からも配慮すべき対象とされていなかった当時の事情もありました。
それと、なんとなく自分の苦しみは病気というよりは、人格的なものとか性格の至らなさからくるもの、という捉え方をしていたからのように思います。
精神分析でも救われない気がしました。
一時期、心理学をかじり自分の性格の暗さは、母の人生と深く関わっている、と思い調べ始めましたが、私を救うどころか暗い淵をますます濃くしただけだったので止めました。
Yさんは、長野善光寺の戒壇堂というところをご存知ですか。
そこは真っ暗で、入った人は片手で壁を伝い歩きして外への出口に達する、というものらしいのです。
私は土産話に聞いて印象に残っていました。
いま私は、暗闇堂歩きに似た“戒壇めぐり„をそろりそろり歩き始めました。何かを探して……。
五里霧中ではありましたが、手がかりが全くないわけではありません。それは、“純粋„の反対を探ろうということです。
そう思った根拠は、今までの“純粋„をめざした生き方が苦しみだらけの人生だったからです。
笑いたくなるほど単純に私は決断しました。
ではその反対を探ってみよう、という発想です。
間違ったらまた出発点に戻り、また方策を考えよう。
焦ることはない、死の30分まえに謎が解明し、青い空にむかい生きていてよかった!と思えたら、それでよし!と思い定めました。
純粋をイメージすると、錐のように尖ったものが浮かびました。
その反対は……、広いとか多様です。
雑多とか普通もあります。不純とか堕落という世界も反対の領域にはありましたが、なぜかこの時は思いつきませんでした。
まず“広く!„という線を行くことにしました。
ひろーい世界を旅しよう。風に乗ってタンポポの綿毛のように。
しかし、お金がない、時間もない。絶望か。否!私は実践のルールを決めました。
・第一は、手持ちの駒を使ってやること。……これは、金がない、時間がないなどの外部条件の悪さを言い訳にしないためです。
・第二は、自分の好きな世界を利用すること。いくらためになることでも、長続きしなければ意味がないと思ったことです。
・
第三は、わかったことは実行すること。失敗したらゆったりと乗り越えればいい。
こう書くと、まるでビジネス戦略のようですが、本当のところ、これは私が後で自分の辿った道を、ああーそうか、この時は壁にぶつかり、こんな知恵を出したんだっけ、というものをまとめたものです。
だから実践のルールを最初決めたなんてちょっと格好つけすぎです。
でも分かり易いようにこのままにしておきます。
まず、私は広い世界を目ざし図書館を利用することにしました。
なぜ図書館かと言いますと、ここには、世界の人間の叡智や、情念がみんな集まっている、と思ったからですし、何よりすぐ実行できました。
失敗してももともとではないか。
その頃、市の図書館は、本道りから百メートルほど奥まった所にあって、さほど広くはないけれど、周りの樹木や緑と供に建物の重厚さが相まって、私の最も好きな空間でした。
ブレーンストーミング
今まで図書館へ行けば、ためになりそうな、文化の薫り高い本を選びましたが、その選び方はやめました。
聖書も思想書も禅宗も、キューリー婦人もアルベルト・シュバイツアー博士も、その他の偉人、賢人、ひたむきに生きた人々の物語は今回はお預けです。
今までの反対の世界を行くのですから。
どの本を選んでよいか分からないので、もう一つのキーワードの多様性という線をゆくことにしました。
1、2
その方法として、世界周遊のように図書館のいろいろな分野を覗きました。
仕事の合間や休みの日、図書館の書架を回り、気が向けば一冊本をとり深入りしないようにぺらぺらと繰り、無作為に1、2ページを読みました。
中国の歴史書、現代彫刻の本、落語、手芸の本、エロ本、建築関係、旅行記、バイクやカー関係、とにかく今まで経験しない世界ばかしを選びました。
絵画は、抽象画の変てこなのもよく見ました。
気楽にやっていましたから疲れることはありませんでした。旨を、居並ぶたくさんの本の表紙だけを丹念に読んでいったこともあります。
えび茶色、剥げかかった金文字、書架の上は首をのけぞらせ、下方はしゃがんで見ました。
この時、私はかって読んだブレーンストーミング法を、無意識に応用していたかも知れません。
この方法は、一口に言うと、硬くなった頭をほぐし活性化させる方法です。
普通は、研究、事業開発、商品開発などに応用され、具体的には、使う用具も本だけでなくいろいろあるようです。
『考える技術・書く技術』を書いた板坂元教授は、この中で独自のブレーンストーミング読書法を次のように紹介しています。
生活が単調で、そこから脱け出したい時、新しい考えが出ず行き詰まった時、活用するといいそうです。
まず、新聞売り場へ行き、さまざまな雑誌を二十冊くらい買い集めます。
このとき大事なのは、内容も誌名もいちいち確かめないのがよいそうです。
セックス、株式、ファッション、漫画、スポーツ、自動車、思想、料理、手芸、旅行など変化に富んだ方がよいという。
これらの本を初めから終わりまで眺めるように読んでゆく。もちろん面白い記事は全部読む。
二日くらいこれをやると、不思議に新しいアイデアが湧き、行き詰まった問題を別の角度から眺めることが出来るようになるというのです。
私の図書館ぶらぶら歩きは、もしかしたら、この場合いちばん適切なものだったかもしれません。
そんなさすらい旅のような状態がどれほど続いたのでしょうか。
ある日、図書館の中ほどの書架の前で、まるで啓示のように“人間を……„と言う声がしました。
びっくりした私に、さらに囁くように、“普通の人を……„と声が続いたのです。
このどこからとも知れぬ声は、ちょうど知らない土地で道を聞いたら、駄菓子やのおばさんが教えてくれた。
そんな感じでした。神がかってもいず、ごく自然でした。ですが、その内容には虚を突かれ驚きました。
“人間を……„、“普通の人を……„。声はそれだけでした。
中途半端な言葉です。あと何が続くのでしょう。
アンデルセンの小びとたち
Yさん!ふだん私がまったく考えもしない声が、行く手を導いてくれた!というとオカルトじみていて、貴女は「変な話……」と顔をしかめられるかもしれませんね。
ですがあれは「靴屋の小びと」だと私は思いました。
アンデルセン童話だったでしょうか、貧しい靴作りのおじいさんが病気になり、寝ついてしまいました。
20
さっそく暮らしに困ってしまいましたが、ある朝、起きてみると、素敵な靴が出来上がっています。
それが毎日続くので不思議に思ったおじいさんが、ある夜そっと覗いていると、夜中、小びとたちが仕事場に出てきました。
皮を切る者、なめす者、皮と皮を縫い合わせる者、そこ皮に縫い合わせる者、まあ夜の灯火に照らし出されてかわいい小びとたちの動き回ること、甲斐甲斐しいこと。
少しも無駄なく皮を切り、針と糸を操っているのです。
無意識という未知の精神領域を発見したのはフロイトです。20世記最大の発見の一つといわれています。
お腹が空いた、あの洋服が欲しい、あの人が好きだ、何となくあの人は嫌いだ、いじめられて悲しい、などの欲望と感情。
受験勉強などで、たくさんのことを叩き込んで覚えようとする、記憶や意志、それらを私たちは“私自身”とふだん思っていますが、実はそれは精神領域のごく一部の表面に過ぎない、とフロイトはいうのです。
彼は、氷山の下にその9倍の氷塊があるように、意識されない領域、“無意識”がある、というのです。
そこには生まれてから今日までの体験したこと、見たり聞いたりしたことが全部蓄えられている、というから驚きです。無限大のお倉のようです。
大海のようなその場所は、ふだん沈黙していますが、夢などはたまたまその存在が表面にぽこっと出たものらしいのです。
私はこの無意識のことを考える時、暗い深い大海のイメージが湧きます。生命を生み出した海を。
表面の意識下の無意識の領域は、さまざまな事象を組み合わせて、まるで真夜中の小人のように答えを作り出していたのではないでしょうか。
ブレーンストーミングで活性化し流動化した脳細胞の隙間から、マグマが噴出するように答えが出てきた、私はそう思っています。
【続く】
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