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体験記・逸見ゆたか・精神的ひきこもり脱出記(3)

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目次

精神的引きこもり脱出記(その3)

著者:逸見ゆたか(女性)

略 歴
1934年(昭和9年)生まれ。
祖父母の家で育てられ、母は隣町の旅館の女中をしながら実家に仕送りをしていた。
中学3年の時、3か月の不登校。
中学卒業後、看護学校、保健婦学校を卒業し、それぞれ資格を得る。 
病院、保健所など就職、転職を繰り返す。
定年退職後は、社会福祉法人で働く。
現在は年金生活。

製糸の町で

私の生まれは昭和9年、所は信州です。
育ったその町は製糸業で栄えていました。
町には大工場のほか、いたる所に家内工業程度の小規模工場があり、林立する大小の煙突から絶えず煙が吐き出されていました。
煙はいつも八ヶ岳おろしの風や、湖から吹き上げる風で、東か西にたなびいていました。
その煙が、東の富士山の見える方角から吹き流された時は、きっと雨になりました。
製糸工場などというと、古色蒼然としたセピア色の風景に思えるでしょう。
でもその当時の日本を担う最先端の産業だったのです。
夕方ともなると女工さんたちが、町に繰り出しにぎやかでした。
彼女たちは、地味な縞柄や絣の着物を着、帯の代わりに三尺と言われた赤や黄色の華やかなモスリンの布を、折りたたんで腰に巻き、余ったのを後ろで蝶結びにしていました。
夕闇の中、その三尺のひらひらが、今も私の網膜に蘇ってきます。
すれ違う時、さなぎと酢とお乳の匂いがしました。
さなぎの匂いは、繭を煮ている釜に手を入れ、ぷくぷく煮えている繭から絹糸を引き出す作業のためです。
繭は絹糸をすっかり巻き取られると、蝶になる前の幼虫が、まるで手を合わせたお地蔵様かお大黒様のような姿を現します。
貧しかった当時は、それを空煎りして砂糖醤油で味付けしたものが良く食卓に出ました。
尾頭付きのさんまを、年に2回ほどしか食べられなかった、貧しい時代の蛋白源だったのです。
酢は熱い釜に入れた手の荒れを防ぐために塗るのです。
サクサンという呼び名を酢酸という字に置き換えて理解できたのは、ずーっと後のことです。
お乳の匂いはどうしてでしょう。
今でも不思議です。未婚の若い女性たちから、まるで乳呑児のような匂いがしたことが。
湖を中心に、周囲を山々に囲まれた盆地には、2つの市と幾つかの町村がありました。
高台から見ると、集落の周りは、緑の田んぼや畑がとり囲んでいます。
5月、かっこうの声が風に乗って対岸の山にも里にも、天にも地にも満ちていました。
かっこう、かっこうと美しい声が領する天地でした。
その中で、風光の美しさとは異質な暗い心で私は育ちました。
私は、何を食べても、何を買って貰っても、無邪気に喜ぶことが出来ない子でした。
「違う、違う、私のほしいものはこんなものじゃあない」
私の中に正体不明の巨大な空洞があって、寒い風がそこからひゅうひゅう吹き出るのです。
その何かが何であるか、分からぬままに私の人生は始まったのです。
家の前から見える風景は、荒涼とした山に一本の貧弱な木が立っていて、いつも風に吹かれていました。
青い空には、私を抱き取ってくれる隙間も、嬉しいものを出してくれるポケットもなく、無機質にシーンとしているだけでした。
母は今で言うシングルマザーです。
祖父母の家に私をあずけ、隣町で旅館の女中をしながら、私の養育費を仕送りしていました。
母は私に多大な影響を与えたのですが、ここでは省略します。
項を改め、何回か母は出てきます。

祖父母の家

物心ついた頃、私は祖母の家にいました。
私は、母の七人姉妹の一番下の子として入籍され、母の妹や弟たちと姉妹のように育っています。
はじめに祖母の家と思わず書いてしまいましたが、私の中に父親とか男性はまことに影が薄く、ついそんな表現になってしまったのかもしれません。
一家の主人としての祖父は、若い頃製糸工場の検番をしていたようです。
検番とは、現場監督のような役目らしいのですが、はっきりとは分かりません。
老いてからは、仲間に誘われて、炭焼きを始めています。
寡黙な人で、にぎやかなこと、はしゃぐことが嫌いだったようで、山の中でするその仕事が性のあったらしく、六十歳代で癌にかかって死ぬまでずっとやっていました。
祖母は、7人の子どもを生んで83歳で脳卒中でなくなりました。
働き者で、近くの個人経営の製糸場へ行って働いていました。
祖父と違って、生活を楽しむことが好きだったのでしょう。
となりの市に、今でいうヘルスセンターみたいな所があって、休みの日にはお重を提げては、子どもたちをよく連れて行ってくれました。
また、私の住む町には劇場が一つあって、出し物が変わるたびに大看板を職人さんが塗り替えていました。
その刷毛捌きを学校帰りの私は立ち止まってよく見ていました。
さまざまな芝居がかかりましたが、その中でも一番人気の都八重子一座がかかると、町中もう大変で、祖母はいつもより一段とお重のご馳走をふんばり、いそいそ出かけるのでした。
股旅姿の八重子が、だんびらを振りかざし大みえを切る時、金歯がキラリと光るのが何ともたまらないと、祖母や仲間たちは、きゃあきゃあ華やいでいました。
祖母はまた、人付き合いがよく、いつもお茶のみ話にだれか来ていたし、山梨や松本の親せきの人も湯治に何日も泊まっていきました。
そんな時、ご馳走の金を工面するのに、たんすの着物をごっそりと風呂敷に包み、大急ぎで娘に背負わせて質屋に飛んで行かせるのでした。
あしたのお米にも困る生活をしながら、今よりは屈託もなく、うっかり質受けすることを忘れて「流しちゃったー」などと、笑って茶飲み話するのをたびたび聞いていますが、真相はお金の都合がつかなかったのではないのでしょうか。
その頃、男の子は小学六年にプラス2年の、尋常高等学校に行くのが上等の方でしたから、わが家の叔父も叔母も昭和20年の終戦の頃は、近隣の町や市の工場や鉄道で働いていました。
けれど相変わらず貧乏で、豊かになったという印象は少しもありませんでした。
この当時の思い出が陰惨なのは、祖父が酒乱を起こしては、祖母の髪を手にぐるぐる巻いて家中引きずりまわす、からです。
よほど強烈な印象を受けたらしく、私の4歳年上の叔母は、終生男の酒飲みを毛嫌いし、結婚もしませんでした。
けれど他の姉妹は、みんな結婚もしているのをみると、悲惨な境遇でも受ける傷はまちまちだったらしいのです。
こんな目にあいながら、祖父が胃がんにかかると、祖母は好きなタバコを止め、祖父に添い寝するように、死ぬまで看病したのです。
私たちがびっくりしたのは、祖母はタバコ好きで、家にいる時はいつも巻きタバコをくわえていましたから、台所から、居間、便所と家中いたるところに灰を落としていたのです。
後年、母に「とても厭な悲しい情景だった」ことを話すと、祖父の荒れた原因は、祖母の浮気だったらしいのです。
7人の子どものうち第五番目の子は、他の姉妹とはまったく違った顔と気性でした。
その子の父は、近所の家に逗留していたAという遊び人風の男だったらしいのです。
すぐ涙ぐむ私のため、洗濯や家事の大変なことは、ほとんど叔母たちがやってくれました。
そのため、貧乏暮らしのくせに、生活の基本的なノウハウを何も知らず育った点は、現代の子どもと似ています。
外の世界に心を閉ざした私でしたが、祖父や祖母が私のためにしてくれたことは今も幾つかの風景となって記憶に残っています。
例えば、祖父は、私が就職のため部屋を借りると、大八車に行李と布団、七輪などをつけて、十キロ程はなれた村まで運んでくれました。
祖母は、目の悪い私を毎晩近所の医者に連れてってくれました。
その途中で夜店へ寄り、みかんを一つ買って私の手に握らせ、「いいかい、泣くじゃあーねえぜえ」と言い聞かせ、私もまた、「うん」とこっくりするのですが、医者が目薬を一滴落とした途端に、ワーッと泣き出しました。
まるで、ボタン人形のように、泣いていました。
みかんの効果はなかったにもかかわらず、祖母は懲りずに同じことを言い、私も毎晩、約束して、わーっと泣いていました。
終戦後の食料事情の悪いとき、祖母や叔母たちは、かつぎやをして家族の食料を確保してくれたのです。
お米を在の農家から買い入れ、東京や名古屋に持って行くのです。
当時は新宿まで7時間もかかりました。
(今は、2時間で行けます)
たまに、警察の取り締まりがあって、せっかくのお米をごっそり取られたとか、うまく網を逃れたなどの話をしていました。
子ども心にも、家の貧乏がより一層祖母の肩にかかるのでは、と胸がいたくなりました。
長旅でよほど疲れるのでしょう、手も足もあちこちに投げ出して正体もなくごろ寝していました。
いまでも寝姿が焼きついています。
祖母は猫が好きだったらしく、それまで飼っていた猫がいなくなると、必ずどこからか子猫を貰ってくるのです。
祖父は嫌いだったようで、猫が近づくと、ふーっと鬼のような顔をするので、猫は祖父から一番遠い襖の際をしのび足で、警戒しいしい通っていました。叱られている時などは、私は悲しくてたまりません。
涙を流しながらじくじく泣いていました。

甘えない子

幼い頃の写真を見ると、眩しそうに目を細めた平凡そのものの女の子が写っています。
この女の子の内部は、憂うつな暗色に占領されていました。
目立たない子でしたから他人は、何て覇気のない印象の薄い子だろう、程度の印象だったと思います。
幼い子供にとって、外部の一般的な子ども像などわかりませんから、家族から、変人!と呼ばれたり、実の母からさえ「この子は、甘えることをしない子だ」と可愛げがない、というニュアンスを含めてたびたび言われても、ただぼんやりしていました。
私自身は、自分のどこがいけなくて、どこをどう直せばいいのか、皆目わからなかったし、ただ私は駄目な子らしいと、暗い悲しみを紙一枚くらいずつ堆積していっただけです。
当時の私は、生きることが厭でしかたありませんでした。
なぜ生きなければいけないのか、不可解でした。
生きることは辛いこと悲しいことに満ちていて、この世は苦悩と悲惨ばかりだ、と物心ついた頃から思い込んでいました。
遊ぶ意欲もおもしろさも感じなかったから、かわいげがないのは当然だったと思います。

傷つきやすくすぐ涙ぐむということも特徴でした。
祖母の家に母の妹たちの一番下の子という籍に入った私でしたが、ある時、私へのご飯の給仕がみんなの最後になってしまったことがありました。
待っていた私の目から大粒の涙がぼたぼたと溢れ出す始末で、私が、ひがまないように祖母は随分気を使ったようです。
夜は怖い夢ばっかし見ました。
大きな川の脇にいる私に、お化けみたいな者がうわーっと襲い掛かってくるのです。
楽しい夢は一度もみたことがありません。
寝つくまえ、掛け布団の唐草模様や布団の起伏をなぞっては、様々な夢を描くのが楽しみでした。 
ちょうど子猫や小動物が母親の乳をまさぐって、そのうち毛皮のふかふかした中に鼻づらを入れて寝入ってしまうように、私を暖かくしてくれたのです。

不登校

毎週月曜日は、朝礼がありました。
晴れた日はグラウンドで、雨の日は講堂に立ち並びます。
校長先生のお話が長くなると、必ず倒れる生徒がでますが、それは、貧血を起こしたのです。
いいな、私は倒れた生徒を羨みました。
私は、貧血と肺病にひどく憧れました。
肺浸潤という言葉が、東京風でロマンチックに思えたのです。
なんとかそのハイカラな病気にかかりたいと思いましたが、鼻っ風邪とかトラホームみたいな田舎っぽい小病気にはなっても、ロマンチックな病気にはなかなか縁がありませんでした。
授業や試験は、らくらく通りましたが、同級生と話し合うことにまったく興味を持てない私には、学校生活など退屈以外の何者でもなかったのです。
でも学校がつまらなくても不登校するわけにいきません。
祖父母が怖かったし、家で籠る場所がなかったからです。
中学3年のとき、私は母と一緒に暮らしていました。
そこは、隣町の知り合いの家の二階で、一階には誰も住んでいませんでした。
索漠として埃っぽい印象の家でした。
小さな商店街のはずれでしたが、斜め前に映画館の拡声器があって、演歌調の歌が朝から晩まで流れていました。
長谷川一夫主演の「小判鮫」という映画の看板を今でも覚えています。
不登校のきっかけは、母の病気でした。厳寒の一月末、夜中に母がお腹を病みだしたのです。
世間知らずの私でしたが、近くの医院に飛んでゆき戸をドンドン叩きました。
「母が胃痙攣ですごく痛がっています。
お願いします。来てください。」さんざん叩いてから、やっと眠そうな女の人が出てきて「先生は往診で、朝にならなければ返ってきません」それが口実だとは子ども心にも分かりました。
「看護婦さんでもいいんです。注射を一本すれば、治まるんです」母には、持病があって俗にいう「胃痙攣」の発作が時々ありました。
この土地に来てから始めてでしたが。
その後看護婦の道に進んでからは、この私の注文がいかに滑稽で違法か、よく分かるのですが、この時は夢中でした。
私が必死に頼んでも聞き入れられず、諦めて凍てつく冬の道をとぼとぼ家に帰ってくるのですが、母の苦しみように居たたまらず、その医院の戸を叩き、さっきと同じ返事ですごすご帰ってくる、ということの繰り返しを朝まで続けていました。
病んでいる母がかわいそうで、かわいそうで仕方がありません。
私は声をしのんで泣きじゃくって居ました。
母は病みながら、そんな私に細い絶え絶えな声で「だいじょうぶだよ、だいじょうぶだよ」と慰めてくれるのです。
長い夜があけ、外が白みはじめた頃、もう一回医院に行くと、今度はその女の人が、すーっと来てくれたのです。
一言も口を利かず、ぶっきらぼうに私に命じたお茶碗のお湯を、注射器に吸い上げ、薬包紙の白い粉薬をサラサラとその注射器に入れました。
医学に無知な私でも、さすがにこの時の印象は鮮烈でした。
納得のいかない変な対応でしたが、打たれた注射の効き目はすばらしく、痛みも魔法のように消え去らしてくれた代わりに、よほど強かったのか母はぐったりして、その後一月も起き上がれませんでした。
後年、母は胆石から腹膜炎をおこし、危うく一命を失うところでした。
胃痙攣というのは実は胆石だったかもしれません。
今から考えると、医者が診察もしないで、痛み止めの注射を打つ、なんて無謀きわまることですが、とにかく母の苦痛は去りました。
が、あまりに長い時間苦痛に耐えたことと、注射が強かったせいでしょうか、母はすっかり衰弱してしまいました。
その母の看病のため、学校を休み始めたのです。
看病といってもおかゆを炊いた程度ですから、不登校をしなくてもよかったのですが、私の方も心のどこかがぷつんと切れたように、無意味な学校に行くのを止めてしまったのです。

この頃、生活はどうしていたでしょうか。
母は病むまで、かつぎ屋と古物商をしていました。収入が途絶えました。
さらに、この部屋を立ちのいてくれ、と大家さんが毎日毎日、母の枕元に座り込んで、迫るのです。
進退きわまった私たちを助けてくれたのは、同じ市内に住むかつぎ屋仲間の小父さんでした。
母の男関係に対してこれまでは、ひどい拒否反応を抱いた私でしたが、この人には、むしろ憐れみを交えたふしぎな好感を抱きました。
若い頃はさぞハンサムだったと思います。
このときもその面影を残した彫りの深い顔つきでした。
けれどアルコールがこの人の人生を奪ってしまったのです。
奥さんも愛想をつかして離縁してしまったとか。
酒焼けした、人のよそうな表情で、中国に従軍していた時の話をしてくれました。
今でも覚えているのは次のような話です。
――中国の人はね、けんかする時、おたがいが向き合うなんてしないんだよ。
お互いが背中合わせになって、周りを取り囲んだ人たちに、一生懸命じぶんの言い分を訴えるんだよ。
周りの人たちが、いいとか、そこは悪いって言うんだよ。――
「本当!」と私はちょっと心が開放されたように、おもしろがって聞いていました。
小父さんは、中国語がぺらぺらだったそうです。
話をする時、懐かしげに目じりの皺を深くするのです。
中国をうんと愛していたんだな、と私は思いました。
私たちとこの小父さんは、つかのま人生を一緒に歩いたに過ぎません。
アルコールに魅入られた人でしたが、私たち親子の辛い時期、彼がいたからこそ、沈没せずに生き延びられたのだと思います。
先生が訪問してきて、このまま学校にこないと卒業できない、というのです。
一日も早く学校と縁を切りたかった私は、登校を始めました。
担任の男先生は、私をクラスの他の子と融和させようとさまざまな努力をしてくれました(当の私は、その必要は感じていませんでしたが…)。
ご自分の家に連れて行き絵を一緒に描くきました。
かりんや梨、りんご、瓶などで構成されたセザンヌ風の絵です。
それに先生の手を加えたのを(ずいぶん立派な静物画になりました)クラスで発表し私を褒めてくれました。
先生は何とか私を良い方に導かれたかったのでしょう。
でも先生には見えていた私の異常さを、私自身がまったく自覚できなかったのです。
自分を自覚できるためには、自分を取り巻く人間や社会を知り、それとの距離や、違い、共感など通して分かっていく、と思いますが、外部にまったく無関心の私には、私の異常さを分かる物差しがまったく育っていなかったのです。
先生は溜息をつきながら、「これから社会に出て苦労するだろうな」と言われました。
その時の光景は、今でもはっきりと思い出せます。
本当にそれから四十年余、惨憺たる人生を歩みました。
子どもでいながら、こんなに生きることが空しくって悲しくって、ようやっと生きているような私でしたが、世界中の子どもや人間は、みんな私と同じように、感じていると思っていました。
不登校と一口に言ってもいろいろあるようです。
今は、漠然と不登校=いじめという図式を思い浮かべますが、正しい原因を把握しないと、対応策も的を射られないことを私に教えてくれた本に出会いました。
心理学者で小児科医でもある三好邦雄著「ひとり化する子どもたち」(註)の中でたくさんのケースが書かれています。
洋風トイレしか知らない子が、学校の和式トイレが厭、とかトイレの戸を開けられて学校に行けられなくなった子、先生がどうしても厭で…という例など、じつに多彩です。これらは小学生の低学年に多いようです。
中学生になると、勉強についてゆけれない子、いい子をし過ぎて燃えついてしまった子、クラスメイトと人間関係がうまく出来なくて…などなどいろいろあるようです。
註 「ひとり化する子どもたち」 三好邦雄著  主婦の友社  \1200
私はこのどれにも当てはまりません。学校などどうでもよかったし、お小遣いを貰っても、洋服を買って貰っても喜びは一時でした。
虚空に向かってぼーっぼーっと吹き鳴らすほら貝のように、ただ空しくて、生きているのが悲しいだけでした。

大好きなもの……読書

人もこの世も生きるのも、何もかも嫌いという私が唯一好きなのは本でした。
私の育った祖父母の家には、まだ若い叔父や叔母が何人もいて、彼らが読み散らかした本が、私の読書の出発点でした。
字はどのように覚えたのでしょう。
気がついたらどの本もどんどん読めていました。
昔の本は、漢字のとなりに振り仮名がついていたので、それが教師になっていたのかも知れません。
今も覚えているのは、吉屋信子の少女小説、ステイーブンスンの宝島、安寿と厨子王、フランダースの犬、イソップ童話など。
成長するにつれ、恋愛ものの本もどきどきしながら読みました。
読んでいるのを大人たちに悟られないように随分苦心したものです。
当時の恋愛小説など今のものに比べたら、いじらしいほどストイックでピュアなもので、手を握ったり、キスをする場面すらなかったが、それでも顔が赤くなりました。
「天文」という題名のかなり分厚な本が、私を引きつけました。
少年少女むきに書かれたものですが、樺色のしっかりした装丁の本の外形を今でも思い出します。
主に太陽系の話であって今のようにブラックホールの話も、膨張する宇宙の話も載っていませんでした。
また、広大な宇宙に散在するたくさんの銀河宇宙もまだ発見されていません。
それでも火の玉太陽の巨大さや、それを巡るさまざまな惑星の説明は、子どもの私をすっかり魅了しました。
当時は天王星か海王星くらいしか発見されていなかったと思いますが。
整然とした惑星の運行は目に見えない太陽の引力によって統御されていること、地球の私たちには、地球の引力が強く働いているから、石を高く宇宙にまでとどけ、と投げても落ちてしまうこと。
もしも、この地球の引力を振り切って宇宙へ飛び出したかったら、毎秒11キロ以上のスピードを出さなければいけない、という説明は私を驚嘆させました。
瞬きを二つする間に、私の今立っている所から隣町のそのまた隣の町まで飛んでゆくスピードなど想像したくても出来ません。
この時点で私は、人間はこの地球から絶対に脱出出来ない存在だ、星や宇宙は神話と憧れの世界なのだ、と無意識のうちに認識したのです。
「ファーブル昆虫記」も私の大好きな本でした。
岩波文庫から20分冊で出ていた。
ファーブルと言えば、暑いかんかん照りの中で、地面に這いつくばって蟻や蜂や糞ころがしの生態を、虫眼鏡で追って居る姿が思い浮かびます。
私は彼が虫眼鏡を通して大自然の神秘に驚嘆し、探求と畏敬の念でわくわくしている、その人間性がたまらなく好きでした。
そこには専門化し細片化した科学ではなく、宇宙の生命に直結した根源的なものに感応した魂が感じられたからだと思います。
現在では、ファーブルが発見したいくつかのうち、誤りが発見され訂正されているといいますが、私にとって魅力は少しも減っていません。
「トムソーヤの冒険」や、ことに「ハックルベルフィンの冒険」は大好きで何度も読みました。
「赤毛のアン」の世界はなんと私を魅了したことか。
私は想像力も行動力も思いやりも豊かなアンが大好きで、彼女の魅力的なお喋りの世界は、黙っていること、慎ましいことが人間の美徳みたいに思っていた私の考えを、その後変えてゆく大きな因子の一つになっていきました。
ロシア文学のうちトルストイ、ドストエフスキーなども熱中しました。
ことにドストエフスキーの世界には、ぞっこんはまり込んでしまいました。
今思うと、これらの文豪のごく一部分しか理解していなかったのですが。
病気の回復期には、奇妙にそれまで難解だった作品が、すらすらと読み解けるようになりました。
ドストエフスキーの「罪と罰」は主人公の心臓の鼓動まで聞こえそうな文章のすごさと、人間洞察の深さを始めて理解できたし、ゲーテの「ファースト」は難解で読みあぐんでいましたが、熱が下がった時、信じられないほどするすると謎が解けていきました。
彼は人間の偉大さと卑小さを、全宇宙的な視座から理解した人だったんですね。
あの当時の少し向上心のある人ならみんな読んだ、ロシア文学を皮切りに海外名作文学、哲学、思想、大衆小説、捕り物帖から推理、探偵ものまで、何でもかんでもむさぼるように読破しました。
今それらの本を読み返してみると、あの当時、読んだといっても、どのくらい理解していただろうと驚いてしまいます。
若いうちは、背伸びしながら未知の世界を覗きたくて、がむしゃらに前へ前へと進んだ現われかもしれません。
いや単にいい大学を出たことを心密かに、誇るにも似た教養のブランド主義とも大差なかったような面も大分あったと思いますが。
ただ一つ絶対読まないジャンルがありました。
日本文学や私小説などです。
それらは陰気くさく、自分が惨めな現実に引き戻されそうで、避けました。
ロシア文学でもゴーリキーの「どん底」やツルゲーネフなどは、まったく理解できませんでした。
今思うと、生活に根ざしたものは、卑小に感じられて、徹底的に目をそらしたかったのです。
(つづく)
体験記・逸見ゆたか・精神的ひきこもり脱出記(1)
体験記・逸見ゆたか・精神的ひきこもり脱出記(2)
⇒体験記・逸見ゆたか・精神的ひきこもり脱出記(3)
体験記・逸見ゆたか・精神的ひきこもり脱出記(4)

 

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