ごはんを炊かない生活の広がり
ごはんを炊かない生活の広がり
徳野貞雄『農村の幸せ、都会の幸せ』(生活人新書、2007)が書いているなかで、興味を引く1つは「ごはん」です。
米(こめ)の消費量は年々減っています。
「平日の朝食と主食」の調査があり、1987年朝食を食べる84.7%・食べない13.0%、2003年食べる80.1%・食べない17.0%と朝食を食べる人が減少しています。
食べるの内訳はごはん1987年60.3%から(2003年)48.5%に減っています。
こうなる背景は食の西洋化と言うのですが、より大きな理由は核家族の元では電気炊飯器の普及にもかかわらず「ごはんを炊かない」家が多いのです。
一人住まいの家、とくに男性一人ではご飯を炊くのは珍しい部類です。核家族の進行が、ごはんを炊く食事が減り、小麦製品(パン、パスタ、うどん、ピザ…)になっているのです。
これを食の洋食化とか現代風とか言うのですが、からだの健康面ではマイナス要因(メタボ体質化)の理由でもあります。
1955年ごろの日本人1人当たり米の消費量は120kg、2000年ごろには60kg弱といいます(77P)。
核家族化は、家族の機能をいろいろな面で衰退させていますが、ここでいうように「ごはんを炊かない」生活、その一定部分では「食卓のない」生活につながっているのです。
私は一人暮らしが長く続き、ごはんは炊きません(炊飯器はあります)。食事は主に外食、ときにはパックご飯を主食とし、おかずを買っています。
とくに男性の一人暮らしはこれと同じか、これに近い食事が広がっていると確信します。
便利さ(時間節約を含む)を考えれば、これが合理的でもあるからです。
この流れが日本ではかなり大きな規模になり、日本の食糧事情や農業衰退、食料の外国依存を大きくするのにつながっています。
世界各地の食糧品をうまく取り寄せ組み合わせている最高の食生活満喫国などとのほほんとしているばあいではないのです。
問題はそういう社会をつくっている土台、少なくともその1つに家族制度の機能低下があることを理解しなくてはならないでしょう。
何かで読んだのですが、「まな板と包丁のない世帯」も少なくないとききます。
すでに台所・炊事場のない世帯は広がっています。これは「ごはん炊かず生活」の延長した部分ともいえます。
これは文化的・文明的にみて進歩でしょうか?
不可逆的であるならば、それを功罪で判断するのではなく、ニュートラルに見て判断しなくてはならないでしょう。
少なくとも私にはまだそこまで認めてもいいという気持ちにはなれません。
衰退するもの、失われるもの、意識しづらい被害を受けることが多いと思うからです。
(2023年7月)