高度経済成長期の概略
(2)高度経済成長期の概略
高度経済成長期を通して、日本は高度に発展した経済社会に、ゆたかな社会になりました。
この「ゆたかな社会」とは若林繁太先生の言葉に対応しています。では「ゆたかな社会」とは何でしょうか?
「ゆたかさ」は毎年の社会状況や経済変動によりゆれ動きがあります。個人と家庭間の格差もあります。
それ以上に2000年代と第二次世界大戦前や江戸時代と比べるとどうでしょうか。
大づかみに言えば100年前、200年前と比べると日本人の生活はゆたかになったと言えるでしょう。
ゆたかさを物質的な面でみるなら、毎年の小変動を横におけば100年前、200年前と比べればほとんど無条件にゆたかになったでしょう。
衣食住を中心にする生存のための欲求(生理的な欲求)に関してはおおかた充足する社会になっています。
物質的な面、あるいは生理的欲求を補足的に満たすもの——衣類の質や好みなど快適さ、食べ物の衛生面、栄養面の改善、住生活における住みやすさ——が全体として向上しています。
これらの向上は、生産量の増大と科学技術や生活面の工夫により獲得したものです。
こういう新しい獲得や達成には、気付かないうちに失われるもの、他者の犠牲による例もあります。
先進国の文化的生活が後進地域の植民地支配の犠牲によるのは代表例です。
鉱山開発や工業開発による鉱害や公害の発生もそうです。
人々の生活向上の裏側では大量の生活ゴミが生まれています。それらを細かく挙げれば切りがありません。
人間が自然に手を加え始めた農業にその最初の例を見ることさえできるでしょう。
これらもゆたかさの達成を支えた物質面の状態とみることができます。
ゆたかな社会の達成にはこうした反対面があり、それも最小限にする、できれば完全になくす方策さえ考えなければ世界は先に進めない事態になっています。
気候変動は、天体としての地球の自然現象でもありますが、人間の生存活動が大きく関与していることが、明確になっている現在です。
こうした正面、裏面、側面から見る物質的な面の他に、外形では見えない精神心理面に影響するものもあります。
それらはほとんどのばあい身体的にも影響を与えています。
おそらくこの精神心理的、身体的影響は、人間だけにとどまらないと推測されます。
忘れてならないことは、精神心理的な影響は人間の健康や生命の存続さえ危うくするのです。
私はこういう見方を参考に戦後日本の一端を概括します。
戦後の日本は基本的には保守的な社会階層が支配してきました。
しかしその中にもいろいろな色合いがあります。
日本の軍事化を回避しながら経済社会を成長させ、国民生活の向上に心がけてきた政権もあります。
それでも基本的にはアメリカに従属的で国内での支配権をもつ階層による保守的な政権によるものです。これらの全体を肯定的には見られません。
こうした中で、戦後80年近い間に徐々に経済外の軍事的傾向が強まっています。
グローバリズムと平行して進んだ国民の格差を助長する新自由主義的な傾向が大きな影響を広げました。
経済社会の発展による「ゆたかさ」は、こうしていろいろなゆがみ(偏り)を組み込まれていると考えます。
さて高度経済成長期(1955-73年)を経て日本は高度に発達した産業社会、ゆたかな社会になりました。
それが「社会的ひきこもりを生み出す生活基盤」になったのです。その概要を説明します。
比較的客観的な立場から日本経済の歴史を展開した1冊を参考にします。
浜野潔ほか6名『日本経済史1600-2000』(慶應義塾大学出版会,2009)です。
私は社会的ひきこもりを、経済社会の変化との関係から考えます。
そこには農業社会から工業・情報社会に急激に変化したこと、ことに家族の様子が激しく変化したことが読み取れます。
この本は日本の到達した「ゆたかさ」を書き著しているだけではなく、このような面との関わりでも参考にできます。
1955年から1973年の高度経済成長期19年間に、国内の実質生産高は41兆4571億円から207兆6990億円、約5倍になりました。年平均9.4%の成長です。
農林漁業は8兆8639億円から10兆7100億円、年平均1.1%増えています。
総就業者数は3836万人から5206万人に増えるなかで、農林漁業者は1680万人から903万人、54%に半減しています。
したがって農林漁業の生産性も上がっています。
工業(製造業)生産高は6兆6777億円から58兆4425億円、8.75倍になり、農林漁業と逆転し遥かに超える産業になりました。
工業の内訳では重化学工業が特に進みました。
就業者数ではそれまでは軽工業分野が過半数でしたが、1973年にほぼ並びます。
1955年に軽工業459万人、重化学工業288万人でしたが、1973年には軽工業778万人、重化学工業764万人です。
1973年の生産額は軽工業28兆9462億円、重化学工業29兆4964億円でここも逆転しました。重化学工業への移行が進みました。
最大の生産額と就業者数を占めるのはサービス産業(第3次産業)です。
1955年の生産額20兆3075億円、就業者数1126万人から1973年は生産額103兆4704億円(約5倍)、就業者2210万人(約2倍)です。
サービス産業全体での生産性は製造業よりも約20%高いのです。
サービス産業は、直接に物品の生産に関わらない多くの分野から構成されます。
『日本経済史』では卸売・小売業、金融・保険業、不動産業、運輸・通信業、サービス業が示されます。
この最後のサービス業がサービス産業の中で最大の生産額であり、医療・保健衛生、福祉・保育、教育・職業訓練、理容・美容、スポーツ・芸能、ホテル・観光、広告、マスコミ・放送・出版、ペット、行政サービスなどであり、これらの分野はさらに広がっていきます。
1973年時点で、高度経済成長期をふり返ると、日本は重化学工業化が進み、生産性の著しい向上により生産に従事しない社会生活の利便性を高める分野に就業者が配置できるようになりました。
他方では農林漁業・鉱業と軽工業分野は国際的な分業体制のなかで役割を途上国に譲った時期です。
高度経済成長で到達したゆたかな日本社会を外側から概要すれば、このようにいえるでしょう。
しかしまだ情報社会への道は多くの人には予測できません。
もう1つ、高等動物ほど成体になるにはより多くの時間を要するという生物学的な法則が進行していたことにも気づいていません。
ところで「社会的ひきこもり」の社会経済的基盤を、高度経済成長期の社会構造の変化と見るには、このような概略だけでは十分に感じられません。
もう一歩立ち入ってみる必要があり、次はその説明です。