アスペルガー的な私はこのように生きてきました(下)
1行: | 1行: | ||
{{topicpath | [[メインページ]] > [[:About Us/不登校情報センター|About Us/不登校情報センター]] > [[:Category:支援者・講師等プロフィール|支援者・講師等プロフィール]] > [[:Category:不登校情報センター・五十田猛・論文とエッセイ|論文とエッセイ・五十田猛]] > {{PAGENAME}} }} | {{topicpath | [[メインページ]] > [[:About Us/不登校情報センター|About Us/不登校情報センター]] > [[:Category:支援者・講師等プロフィール|支援者・講師等プロフィール]] > [[:Category:不登校情報センター・五十田猛・論文とエッセイ|論文とエッセイ・五十田猛]] > {{PAGENAME}} }} | ||
− | == | + | ==アスペルガー的な私はこのように生きてきました(下)== |
− | 「[[ | + | 「[[アスペルガー的な私はこのように生きてきました(上)]]」のつづき<br> |
会報『ひきこもり周辺だより』(2018年3月号)に掲載<br><br> | 会報『ひきこもり周辺だより』(2018年3月号)に掲載<br><br> | ||
2018年3月11日 (日) 23:17時点における版
アスペルガー的な私はこのように生きてきました(下)
「アスペルガー的な私はこのように生きてきました(上)」のつづき
会報『ひきこもり周辺だより』(2018年3月号)に掲載
私たちは1970年以前に戻ることはできません。以前と同じ子ども世界を取り戻すことはできません。
その時代にはあった子ども時代や人間関係によって繊細な感覚をもちながら社会的な成長をとげることは期待できないのです。
それに代わる条件や方法を探し、つくらなくてはなりません。
そして私がこの20年余り続けてきたことは、結局はそういう条件や方法を探す取り組みだったと思えるのです。
初めのうちは無意識のうちに、後になるにしたがいだんだんと目的意識的にです。
適切な時期を通り過ぎた人が医療や特別の支援関係の中で、社会生活のできる力をつける場と努力は必要です。
しかし、それがこれからの条件や方法づくりの基本になるかどうかは疑問です。
それは2つの面からそう言えるのです。
1つは、障害者などのハンディを持つ人は多様であり、そういう人たちが安心して暮らせる社会をつくることが基本になるからです。
ハンディを持つ人が不自由なまま暮らす社会とは、多くの人に不自由な不公平の社会です。
ハンディを持つ人を“二流市民・二流国民”の状態におくことは恥ずかしいことであり、社会全体の損失です。
ハンディを持つ人には特別の役割があり、人によっては特別の能力を持つことが知られています。
特別の役割とは、ハンディを持つ人が暮らしやすくできる社会をめざすことが誰にとっても暮らしやすい社会をつくる原動力になるからです。
いろいろな社会的な運動が広がっていますが、その多くはハンディを持つ人の条件をよくする取り組みです。
社会的・心理的・福祉的・経済的・教育的…そして医学的・行政的・政治的なさまざまな取り組みがあります。
特別の能力を持つ人というのは、創造活動によく現われています。
根気がいいこと・集中力があること・感性が優れている人が多くいます。
私がかかわってきたひきこもりの多くはそうでした。
しかし、その多くは社会生活をうまくできないために、その優れた面を見られない生活、自分でも肯定できない人生を送っていたのです。
うつむきかげんに「つまらないこと、役に立たないこと、暇つぶし、しょぼい生活をしている」などと語っていたのを思い出します。
ひきこもりにかかわる活動を始めた当初、私はひきこもりと発達障害を区別しないでかかわってきました。あるころから、ひきこもりの中に発達障害といわれる人がかなり混じっていると気づいた感じです。
○○くん、▽▽さんの生きづらさがどういう理由によるかを、この面で十分に見分けられませんでした。
発達障害またはその未発達な心身状態が、○○くん、▽▽さんの困難に関係していたと推測できるだけです。
そういう無意識の、自己流の、出たとこ勝負のスタンスで発達障害の人に知らず知らずのうちにかかわりました。
そしてある時、自分もまたアスペルガー障害という発達障害に一員であることに気づいたのです。
発達障害の理解が、日本では学習障害(LD)から広がり、私はLDとの共通面が少なかったことがこの理解を遅らせた理由になっていると考えています。
アスペルガー障害の特徴を知ることで自分との共通性が見つかったのです。
これからの条件や方法づくりが取り組みの基本になる第2の点に話を進めます。
ひきこもりの人が示す対人関係の精密さを求める方向が社会一般の基準に進むと思えるからです。
ひきこもりの対人関係における対等性、相手の尊重などは、現在いろいろなところで問題になっていることを先取りしています。
彼ら彼女らの感覚は例外ではなく、普通のことになりつつあります。
相撲界やレスリング界の動き、いろいろな業界の慣行や自治体の議員などの事件にもそういう感覚は生きています。
力があるなしにかかわらず国民の一人ひとり、人間個人が深いところで民主的な関係を促す原動力になっていると考えます。
ひきこもりの当事者グループの掲げる標語に「ひきこもりが問題にならない社会」というのがあります。
むしろひきこもりだから、発達障害だから、ハンディがあるからこそ、社会の不自然を感じ、表面化させていく条件があるのです。
発達障害やひきこもりに対して取り組まれている社会生活のできる能力を身に付ける場と努力は、いつかさらに有益な役割を果たすでしょう。
ひきこもり当事者たちが独自の動きを始めている時代を迎えつつあります。
彼ら彼女らはハンディを持つ人にとどまらないで、ハンディを持つ人が社会生活する条件づくりに向かう先頭に向かっていると思えることがあります。
この傾向はますます強まるでしょう。発達障害の人もまた同じです。
さらにいえばLGBT(性的少数者)という人たちの動きもあります。
すべては重なって動いています。