Center:2005年7月ー見捨てられ恐怖と依存
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2017年11月19日 (日) 21:38時点における版
目次 |
見捨てられ恐怖と依存
〔*2005年の6-7月ごろ書いた未発表の手稿のメモが6点見つかりました。
書いた順番は必ずしも明確ではありませんが重複している部分、独立した部分、表現の微妙な違い、があり一つにまとめることができません。
これらを一体作とし番号「その1~その6」として掲載します。
「見捨てられ恐怖と依存」は「その2」原稿とします。
「その2」は執筆の時期は記載なし、書いた時期は2005年7月ころ。B5メモ用紙9枚。
掲載にあたり手稿による読めない文字の補筆、表現の点検と訂正をしました。原文の98%以上は維持しています。
タイトル「見捨てられ恐怖と依存」は掲載時につけたものです。小見出しは原文にあり〕
敵か味方か、敵でもなく理解者でもない
あるときの電話から始めましょう。
「引きこもりに対して妙に好意的というか、非難がましいことをいわない人がいたんですよ。
でも“それは心が弱いだけなんですよ”とか“時間がたてば立派に社会に入って働けるようになるんですよ”とか、引きこもりのことなんか本当はちっともわかっていないんですよ。
こっちとしては、その説明をするのは難しいし、かといって攻撃してくるタイプとは違うので、スタンスがとりづらくて……。
どうすればいいんでしょうね」
理解者とはいいがたいが、攻撃者ともいいがたい、このような中間的な人に対して、どう対処していけばいいのでしょうか。
これは一般的には難しいものかもしれません。
とくに引きこもりを体験したようなタイプの人には難しいように思います。
この問題から、問題の所在を考えるのが今回のテーマです。
これは、人が個人としての精神的に自立していない、という一言で表せます。
引きこもり経験者の多くは、より直接的に、「指示と依存」の両極以外の経験が少ないことが、背後にあると思えます。
攻撃者と理解者以外は中間の人への対応がとりづらいのも、その一種であると解釈できます。
一方で、指示的に意志を伝えたり、伝えられたりする。
他方で、依存的に意志を伝えることに流されている。
ここには自分の意志や考えを織り込むという過程がありません。
そこに関係していると思います。
指示的でもなく依存的でもない意思を伝える方法、力量とは何でしょうか。
ここに精神的自立や社会性や個人の尊重などの人間の精神作用がいろいろつまっています。
指示と依存は「支配か従属」と同じ
人間としての成育発達の過程(子どもから青年期)で、自分を尊重された経験の少ない人は、指示的言葉で動かされるか、依存的な対応で意志表示する道を迫られてきたことが多いのです。
ほとんど指示命令的なものしかなかったという人にもときどき出会います(たぶん本人の意識のうえでのことだと思いますが)。
少しオーバーな表現になりますが、これは支配するのでなければ従属するしかない二者択一の環境で、従属を選ぶだけにおかれたのと同じです。
自分が尊重され、自分の感情、意志あるいは力量を問われ、自らそれを確かめていくことを通して決定し、実行していった経験が少ないか、きわめて限られた経験しかしていないのです。
脱線していいますと、このタイプのなかに、自ら支配する側につこうとする衝動が出る人もいます。
子どもの家庭内暴力は、いわばその若年版です。
自分の意志をひどく無視され続けた人の反発行動、子どもの家庭内暴力は、家族内の人間関係を見直すきっかけになることがあるのはこのためです。
自分の意志、感情、力量を問われるなかで物事を表現したり、決定し実行する経験は、自分の役割、存在意識を肯定的に認めることにつながります。
それが他人に対しても同様の態度をとる感覚を育てていきます。
他者を尊重することができないのは、基本的部分で自分が尊重されてこなかったことの裏返しの表われ方なのです。
見捨てられ恐怖と依存の言動
見捨てられ恐怖、ある人にとってはその「見捨てられ」を回避する言動が先行しやすくなります。どうすれば見捨てられないのかが自然な感情として表われるとき、それが依存なのです。
そのような依存が発揮できないとき、依存を阻止されるときには、「見捨てられ恐怖」がわいてくるのです。
「見捨てる」「見捨てられ感」というのは、不登校や引きこもりの対応現場では、「依存」状態の反対面として接することが多いものです。
対応機関側からだされるのは、不登校の子どもや引きこもりの青年たちの「依存」として表面化することから始まります。
依存しやすい子、依存の強い青年への対応をどうするのか、子ども青年側の思いとは違って――それはまず自立に向かう過程での問題状況としてとらえられるのです。
依存から自立へ進むのが対応サポートの向かうところだからです。
「見捨てられ」恐怖は「依存」の影に隠れた要素になってしまいます。
なぜ子どもや青年は依存するのか、それは自立の程度が低いこととして扱われます。
子どもの平板な理解水準です。
すでに問題の背景はみておきました。
子どもや青年は「見捨てられたくない」という見捨てられ恐怖が強いときに「見捨てられる」のを回避するために依存するのです。
そうすると、自分の依存を受け入れてくれる人を求めることになります。
相手がそのような人かどうかを見極めようとつとめます。
子どもにとってほとんど大部分の人は、この点で不合格者です。
しかし、なかには、少なくとも第一次合格者となる人がいます。
その人に対して、自分のあらゆることを受け入れてくれるように求める言動を始めます。
これが依存の言動ですが、第一次合格者の多くも自分を支えきれなくなってしまいます。
評価されるべきは、見捨てられ感の強い人ではなくて、対応者側です。
しかしここでは事態は逆転して表われます。
この事態になったとき、依存を求めた人は、失望と裏切りを感じ、増幅した怒りを表すことになります。
現場での「見捨てられ行動」はこのようなものです。
しがみついたり、ストーカー的に執拗に追い求めたり、かと思うと激しい怒りを、罵声にして爆発させます。見捨てられ恐怖は、依存の一部やその派生的状態として描かれることになるのです。
しかし「見捨てられ感」が強い人とは、いわば虐待かそれに近い攻撃を受け、深く傷ついた心の持ち主です。
「見捨てられ恐怖」自体に焦点を当てて、問題の所在を考えてもいいのです。
そうすると「依存」という言動は、より積極的な意味をもちます。
自立に対立する概念としての依存ではありません。
見捨てられ恐怖と闘う姿としての依存です。
このような背景が見えるとき、対応者は依存している人に心理的にも実質的にも、より寛容に、より心をこめて、より適切にアプローチできるでしょう。
しかし、そのアプローチ、受け入れは必ずしも容易ではないと申し上げておきましょう。
家族にとっての依存の受容
私はこのような依存言動を基本的に支えられるのは、第一義的には家族(父母)であると思います。
父母の、特に母親への依存は“甘え”や“まとわりつき”となります。
長時間の接触、そばにいてほしいという心身からにじみ出る懇願、子ども返りにつきあうのは、とてもたいへんなことです。
私は父母がこのような状態にあるときに、こたえる基本的な内容は「精神的・肉体的に耐えられる限界まで、社会生活上支障のない極限まで子どもにつき合ってほしい」というものになります。
母親一人がこれに対応するのは相当なエネルギーと粘りを必要とします。
できれば父親もそれに加わり、できれば母親を支える側になってほしいと思います。
それでも父母に限度があるでしょう。
限界はあっても父母がこの立場でいる限り、子ども時代に戻って愛情を感じることができるでしょう。
*距離をとる方法。
家族外の人にとっての依存の受容
ところがこのような対応が父母に期待できない人もまた多くいます。
その期待できない程度はさまざまです。
家族からの対応が、受容というよりは、いぜんとして攻撃(虐待)を受け続ける人には可能ならば、家族との別居(一人暮らし)がいいと思います。
このような判断自体が困難な人が多いことを承知していますが、それでも別居を考える人にはそのように勧めます。
別居(それもいろんな方法、形がありうると思います)ができる、できないにかかわらず、見捨てられ不安のある人には、依存をある程度受け入れてくれる人が必要です。
カウンセラー、信頼できる人、特に理解のある一部の親戚筋の人(と限定するのは、親戚一般が必ずしもいい結果になりません)…などがその候補です。
見捨てられ不安の強い人には、その受け入れが自分の思っている以上に困難を伴うことを承知したうえで、これらの人に少しずつ依存(甘え)言動を繰る返す術を身につけてほしいと思います。
あるとき、私は「親代わりになってもらえませんか?」といわれたことがあります。
私はその質問をした母親とは面識がありましたが、引きこもっている30代の子どもとは面識がありませんでした。
私の答えは「親代わりになるとも、親代わりにならないとも、私にはいえません。それを本人に合う前にあらかじめ決めておくことはできない」という主旨になります。
その意味は、私はその親が自分にできることはしよう、という前提でこの質問をしているのがわかったし、私にもしできるならば親代わりになってもよいという思いがあったからです。
しかし、それはあくまでも面識のない状態での一般的な意志であり、引きこもっている子ども側がそれを可能としているかどうか、そこに抵抗感を持ったときそれを超えて「親代わり的役割」をもちうるかどうかは「わからない、むしろ難しいのではないか」と感じているからです。
この質問に私がこのような「親代わり」役目を一般的に排除しない旨の答えをしたのは、私にはいくつかの経験があるからです。
その数人との間にはそれぞれ個別の事情があり、「親代わり」的な内容も程度も違いがあります。
特にプライベートなこともかかわります。
それでより一般的な(?)この経験を振り返りましょう。
家族と距離をとる方法
家族(家庭)内において、自分が安心できる居場所がない人について少し考えてみましょう。
私は大きく2種類に分けます。
一つは、現在は攻撃はなくなっている、あるいはむしろ家族は受容的になっているが、子どもの生育歴のなかでの経験から生まれる不安感が継続している場合です。
この場合には基本的には時間が必要ですし、家族側での苦労と工夫もまた避けられないものです。
この点は家族にとっての「受容」のところで家族側の姿勢の基本は述べました。
子どもにとっては、家族の受容のなかで、安心経験を重ねながら、外に出て行く少しの勇気をもってほしいと思います。
もう一つは、今現在、子どもへの攻撃(たいがいは親などの無自覚)が続いている場合です。
この場合、子ども側からみられる特徴的気分は「お家に帰りたくない」状態です。
夕方から夜になって家に帰らなくてはならない時間が近づくと不安が増しています。
それまでは忘れよう、気をまぎらわして過ごしてきても、時間が迫ってくると「帰宅」もまた迫ってきます。
これへの対応が家族との接触をさけるための防衛手段としてのコミュニケーションの切断、部屋への閉じこもり(立てこもり)です。
親側の無理解が続くならば、程度に応じてさまざまな拒否反応もありうると思います。
器物破損や家庭内暴力はこの延長線上にあるものだと思います。
これを私のほうからおすすめすることはありませんが、子どもがそういう状態であれば、追い込まれた結果であると、その可能性に考えを及ばしていいのではないかと思います。
家族とはなれて生活する、というのもそれが選択可能であれば考慮していいのではないかと思います。
ただそれが実現しても、それで1件落着ではありません。
家族の理解や支援がないなかで、家族と離れて一人自立の道を歩むことは、それだけ環境も厳しいことも想定しておかなくてはならないでしょう。
引きこもり経験者の集まる居場所に行って友人関係をもとめるのも、本人なりの対応でしょう。
趣味のあるグループを接して、そこで友人関係をつくるといいでしょう(筋肉トレーニング、アニメや漫画、鉄道や地理、コレクション…)。
相談機関で気をゆるせるカウンセラーとの出会いを求めるのもいいではないでしょうか。
ともかく以上の人や場を含めて「あらゆる社会資源」のなかでも、自分を受けとめてくれる人、自分が信頼できる人をもとめていくことは悪いことではありません。
そこで気にかけてほしいことは、依存が強く表われると、相手が受けとめられない、負担を感じるので、できるだけ依存を制御できるように心がけていることは、そういう人との出会いを見つける可能性を高めるように思います。
(1)Center:2005年7月ー攻撃的でもなく理解しているのでもない
(2)Center:2005年7月ー見捨てられ恐怖と依存
(3)Center:2005年7月ー指示的な言葉と依存的な対応
(4)Center:2005年7月ー社会性獲得の過程
(5)Center:2005年7月ー自己否定感と対人関係
(6)Center:2005年7月ー非引きこもりとのつきあい方