Center:2005年7月ー社会性獲得の過程
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社会性獲得の過程
〔*2005年の6-7月ごろ書いた未発表の手稿のメモが6点見つかりました。
書いた順番は必ずしも明確ではありませんが重複している部分、独立した部分、表現の微妙な違い、があり一つにまとめることができません。これらを一体作とし番号「その1~その6」として掲載します。
「社会性獲得の過程」は「その4」原稿とします。
「その4」は執筆の時期は記載なし、2005年6月ころ。B5メモ用紙6枚。掲載にあたり手稿による読めない文字の補筆、表現の点検と訂正をしました。原文の98%以上は保持しています。
タイトル「社会性獲得の過程」は掲載時につけたものです。小見出しは原文にあり〕
理解者でもなく攻撃者でもない人
あるときの電話でされた訴えから話しを始めましょう。
「引きこもりに対して妙に好意的で、非難がましいことをいわない人がいたんですよ。
でも“それは心が弱いだけなんですよ”とか“時間がたてば立派に社会に入って働けるようになるんですよ”とか、引きこもりのことなんか本当はちっともわかっていません。
こっちとしては、引きこもりの何かを説明をするのは難しいし、かといって攻撃してくるタイプとは違うので、スタンスがとりづらくて……。
どうすればいいんでしょうね」
理解者とはいいがたいが、攻撃者でもない、こういう中間的な人に、どう対応すればいいのでしょうか。
これはとくに引きこもり系のひとには難しいと思います。
しかし、一般的にも対応は難しいです。
単純に敵、味方に区分できないからです。
具体的な表われ方により対応するしかないのです。
なぜ難しいのかは、単純に敵・味方に区分できないからと言いましたが、それだけではありません。
たぶん経験のなかに両極の対応方法しかなかったことも原因のようです。
引きこもり系の多くは「指示と依存」の対人関係が多く、中間的な対応が少なかったのではないかと思います。
<私は別のところで「自分と他者の違いを容認できる」ことの重要性を書きました。>
一方で指示的に意志を伝えられ、他方では依存的に意志を受け入れることに優れています。
意志を伝えられたとき、そこに自分の感覚や意志を織り込んでいく過程がありません。
何かを伝達するとき、相手から何か条件をだされるとそれを織り込んだ形での伝達に修正することが苦手です。
自分と相手の気持ち、意見、感情をうまく織り込んでいく作業がとくに苦手な気がするのです。
指示的でもなく、依存的でもなく意志を伝える方法、力量とは何でしょうか。
ここに精神的な自立や社会性の獲得、個人の尊重など、人間の成長や精神作用がいろいろな形でつまっていそうです。
このような経験がないと、多くの人は指示命令的なしかたで物事を運ぼうとします。
相手の意思や力量が見えるのは好ましくはありません。
できることを前提にして進めることができるだけです。
とくに相手の感情が見えるとどうしていいのかわからなくなってしまいます。
人間でなく機会のようになってほしいのではないかと思われます。
他者の感情表現を読み取るのにとりわけ熟達しているひきこもり系の人にとっては、感情が見えてしまうと動けなくなってしまったりするのです。
引きこもり経験者は、おおまかにいえばこのように自分を尊重されなかった人であるともいえます。
それらが、社会性のある一つの意思決定の場に表われる様子は、民主主義の不十分さとして表われます。
民主主義とは多数決原理に解消されるのではありません。
その集団や社会を構成する個人が、自分の意志、感情、力量などを量りながら意見表明できることが前提になります。
とくにその集団や社会のなかで最も弱い状態にある人にそれが保障されていることが前提です。
そのうえで多数決原理が成り立つのです。
自由な意見表明ができる前提がないところでの多数決原理は、民主主義ではありません。
前提が反民主主義であり、民主主義不全ともいえます。
失敗とムダの大事な役割
今度は社会性を身につけられなかった点に注目して、その背景を考えてみよう。
日常的には、指示命令的な環境で成長したこと、自分の気分や感情や意志を大切にされてこなかった発達課題がここには積み重なっています。
社会性を身につけることの前提は、じぶんが人間として尊重されることでした。
意志、感情、力量が問われ、自分の意思表示を受け入れられる過程を経験することが不可欠です。
なぜそのようにさせてもらえなかったのでしょうか。
ここを考えると、この人たちは失敗経験や危険の可能性への接近を禁じられていたのではないかと思えてくるのです。
成長過程における親や周囲の大人の先回りやレールに乗せる方式は、善意の親にとっては、失敗の回避と安全な確保のためだからです。
あるいは効率的に進むことが評価される、ムダなことをしないで済むという迷信の犠牲者ではないかと思えます。
親や周囲の大人が身につけた社会的規範や基準は、しばしば一面的で固定的、思い込みによるものです。
「ムダはいけない」というのは、少なくとも一般化はできません。
人間が周囲の環境を深く理解するには、ムダな体験をすることが必要でさえあります。
このような例は枚挙にいとまがないほどです。
親や周囲の大人は、ほとんど無意識、無自覚に、失敗とムダを回避する行動を選んでいます。
それは“時代の精神”というべきものですが、今日のように社会の変動が大きな時代には、人間成長の阻害要因です。
それは他方においては、子どもが本来人間としてもっている人間としての自然な可能性への注目を弱めています。
子どもが引きこもり(系の不登校)になったばあいには、親や周囲の大人のもつ価値観、世間的な基準は、二次的なものとする認識が必要だと思います。
個性を尊重する
第一次的な要素は、子ども(人間)が本来的にもっている素材をいかに伸ばしていくのかという点です。
それは個性の尊重ということでもあります。
一見、教科書的な基準(世間体、大人が常識としていること)から外れていても、それは本当に支障になるかどうか考えてみる必要があると思います。
例えば学力が低いということはどうでしょうか。
低くても社会生活にひつような基礎的な学力があれば、学力以外の別の特技や能力によって人間社会では通用するのではないでしょうか。
周囲の大人が求めているのはそういう基準ではなくて、学力(というよりは学歴)によってしか生活できないという固定観念ではないのか、考えてみる必要があります。
多くのスポーツ選手がそうでしょう。
歌手や演劇などの表現活動をしている人がそうでしょう。
いや、それほど一流でなくとも社会人としてやっている人はいくらでもいるのではないでしょうか。
学力や学歴を最高の、または唯一の基準にして人間を判断する風潮に周囲の大人が巻き込まれ、それで子どもを引き回していないでしょうか。
それは人間を多角的、総合的に評価するのを怠っています。
学力、学歴による偏った人間評価でしかないのです。
このような偏った環境で育った子どもは、一方ではそのような価値観をもつ人間として育ちやすく、その反面でそれについていけずに苦しんでいる人をも生み出すことになります。
周囲の人の支援方法
このような価値観から脱落した人にこそむしろ未来があります。
ところで、古い価値観にとらわれる人と、別の価値観を見つけてつき進んでいける人の違いは何でしょうか。
シンプルに理解できるのは、子どもにそれに反発する力があるときです。
親の意向がどうであれ、子どもが勝手に自分の好きな道を進めることができればいいのです。
私はその道が人道に反するものでなければ全てよい、とさえ思います。
要は親の態度が試されるだけです。
しかし、引きこもり(系の不登校)になる人の多くはそうシンプルに自分なりの道を歩んでいけません。
葛藤し、優柔不断であり、親や周囲の人の顔色を見て容認を確認しながら少しずつ進んでいきます。
ここで誘導しないことです。
むしろ子どもの自由度を広げるように、子どもを楽にしてやれる条件をつくることです。
これもまた親と周囲の人の度量が試されるのです。
(未完成で途切れる)
(1)Center:2005年7月ー攻撃的でもなく理解しているのでもない
(2)Center:2005年7月ー見捨てられ恐怖と依存
(3)Center:2005年7月ー指示的な言葉と依存的な対応
(4)Center:2005年7月ー社会性獲得の過程
(5)Center:2005年7月ー自己否定感と対人関係
(6)Center:2005年7月ー非引きこもりとのつきあい方