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Center:(1)人生模索の会の到達・反省・総括

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2001年6月に不登校情報センターが大塚から新小岩に転居した後、人生模索の会の内容について、人生模索の会の提唱者である駒田くんなど数名と私が話し合う機会があった。<br>
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個人間の問題もある程度までいくと集団の問題としてみなくてはならない。<br>
 
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それは可能性の1つだったが、大きく言えば、この公開の話し合いの結果、3つの可能性があったと思う。<br>
 
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この結論を出したより基本的な理由が別にある。<br>
 
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人生模索の会の問題は、(外から見れば)結局、五十田の問題である。<br>
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人生模索の会の問題は、(外から見れば)結局、五十田(松田)の問題である。<br>
 
その点を外した結論はあり得ない。<br>
 
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それは人生模索の会が、当事者の会でありながら、半ば五十田に依存していた会であったことに原因がある。<br>
 
それは人生模索の会が、当事者の会でありながら、半ば五十田に依存していた会であったことに原因がある。<br>
 
その状態から抜け出せる条件が広がってきた。<br>
 
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だからこの点の不十分さも目立ってきた、ということだ<br>
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だからこの点の不十分さも目立ってきた、ということだ。<br>
 
私は、人生模索の会が文字通り自主的で自立的な当事者の会になることを期待している。<br>
 
私は、人生模索の会が文字通り自主的で自立的な当事者の会になることを期待している。<br>
 
それに現実の条件が備わっていることが明らかになった。<br>
 
それに現実の条件が備わっていることが明らかになった。<br>
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それは当人同士で処理すべきことだと思っているが……。時間とタイミング(機会)が必要なのだろう。<br>
 
それは当人同士で処理すべきことだと思っているが……。時間とタイミング(機会)が必要なのだろう。<br>
  
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[[category:『引きこもりと暮らす』|1-5-2]]
 
[[category:『引きこもりと暮らす』|1-5-2]]

2019年1月2日 (水) 16:21時点における最新版

(1)人生模索の会の到達・反省・総括

(1)

2001年6月に不登校情報センターが大塚から新小岩に転居した後、人生模索の会の内容について、人生模索の会の提唱者である駒田くんなど数名と私が話し合う機会があった。
駒田くんは、引きこもり経験者以外の人、あるいは病的状態の引きこもり経験者を、人生模索の会で受け入れるのは避けるべきではないか、という意見だった。
駒田くんのこの意見は、今回が始めてではなく、それまでもときどき言っていた。
人生模索の会を設立する前(1998年8月)、駒田くんと私が話し合い、この会に参加をよびかける対象者はこうだった。
(1)引きこもりの経験がある。
(2)友人をほしいと思っている。
(3)働くことに前向きである。
(4)25歳以上……ただし、必ずしも全部がそろうことが絶対的な条件ではないというものだ。
駒田くんからの今回の提起は、それ以前にあった当事者の会「こみゆんとクラブ」のなかの引きこもりの経験者で話しあえるグループをつくろうとするものだった。
ということは、人生模索の会が枝分かれした時点では「こみゆんとクラブ」と「人生模索の会」が同時に存続するということを前提にしていた。
たしかに1999年10月に人生模索の会の初会合の後、1999年11月にこみゆんとクラブの名による会合を開いた。
この時期は、この当事者の会の会合は2~3か月に1回で、いまのように毎週開いているのとはかなり違っていた。
しかし、私には時間がとれないこともあり、2つの会を別々に運営することが実質的に難しくなっていた。
やがて人生模索の会だけしか開けなくなった。
その結果、人生模索の会が当初考えていたものと違っていった。
人生模索の会がこみゆんとクラブ的であってやや引きこもりに重点がある人たちの会、という内容になったのだ。
2001年の7月ごろ、駒田くんが「人生模索の会を原点に戻したい」というのは、その意味で十分に根拠があったことだと判断しなくてはならない。
しかし、7月ごろ駒田くんたち数名と私が話し合ったとき、私はこの事態をまだよく理解していなかった。
私がそこで答えた内容はおおよそこうだ。
対人関係に不安があってもある人は引きこもりであり、別の人は対人恐怖になったり、ときには病的になっている。
1人の人が時期によって比較的元気であったり、落ち込んでいたり(病的になっていたり)、暴力的になったりもする。
それらを分けることは実際的には難しい。
人生模索の会ではいろんな人を受け入れよう。
駒田くんは私のこの意見をきいて、やはり意見が違う、人生模索の会はフリースペースとして別の会をつくろう、という方向で考えるようになった。
それはこみゆんとクラブから人生模索の会をつくったときの目標が、ほとんど未達成ので、新たにその課題に取り組もうと駒田くんは考えたのであろう。
たぶん8月ごろ、人生模索の会が終了した後で、その参加者の多数が残る形で話し合いの機会があった。途中、私も呼ばれて参加した。
この会でどんなことが話しあわれたのかは、あまりはっきりした記憶がない。
ただ私が話した内容は「何かこうしたい。こういうグループをつくりたい」という人がいれば、私はそれを私なりのできる方法を応援するつもりでいるという内容だ。
数日して情報センター内に「ひきこもり模索の会」をつくる呼びかけが出された。

駒田くんとやりとりした内容も「ひきこもり模索の会」の動きも、2年ほど前のこみゆんとクラブと人生模索の会が別になった事情と同じでしょう。
Aくんは引きこもり経験者ではない。
だから引きこもり経験者の会にしたいという動きに包み込まれ、Aくんをめぐる動きはさほど顕在化しなかった。
しかし「ひきこもり模索の会」は成り立ちませんでした。
参加者が集まらなかった。
新しく会をつくっても、すぐには参加者が集まらない。
対人関係に不安のある人による当事者の会では、特に顕著なことだ。
辛抱して、しばらく呼びかけつづけるしかなかったのだが。

(2)

秋になって、人生模索の会「運営委員会」の名で、1つの文書「会則」がはり出された。
それは次のとおり。
「~会則~
(1)原則としてひきこもり・対人不安の当事者、経験者を参加資格とします。
ただし、運営委員および会員の承諾が得られた人の場合は、例外として参加する事も出来ます。
(2)当会の目的は社会参加(アルバイト、就職など)および情報・意見交換です。
したがって、ナンパおよびあそびを目的とする人は参加できません。
(3)当会は自助グループですので、「自己責任」が原則です。
ですので、会で何らかのトラブルが発生したとしても、当会では一切責任を負えません。
(4)当会において、会員等他人に迷惑をかけるような行為、または問題行動を起こした人は、運営委員の判断に基づき、即刻出入りを禁止とします。
(会則違反行為とみなします。)
以上会則を遵守していただき、同じ悩みを持つもの同士(運営委員も当事者・経験者です)、思いやりを持って、明るく前向きに交流しましょう。
                         運営委員一同」

この文書の基本的な内容は、駒田くんのいう原点に戻ったとき、それをめざす会の形を示している。

しかし、この文書はそれほどには注目されなかった。
Aくんが来なくなっていたことも一つの理由でしょう。
それ以上に、ほとんどの場合、前向きの何かの動きはいつも無反応の中で迎えられ、消えていってしまうように見える、その雰囲気に消えてしまった。
この文書のインパクトはほとんどありませんでしたが、これを作った何人かの人たちの確かな記録として残ったのです。
しかしこの文書を作った人たちに、私は次の点を指摘しなくてはなりません。
(1)運営委員とは何か──人生模索の会で運営委員会をつくろうと決めたことはありません。
私が昨年(2001年)の夏に一度口にしたことはありますが……。
(2)運営委員会はどのようにして生まれたのか──自分が名乗っただけなのか、選出されたのか、設立者である駒田くんによって指名されたのか。
これらがはっきりしないと砂上の楼閣です。
(3)運営委員は誰と誰なのか──メンバーは公表され紹介されていなくてはなりません。
少なくとも私は誰がメンバーなのかを知らず、「聞いたことはありません」。
メンバー以外の人も誰が運営委員なのか知らないでしょう。
(4)従って、このような運営委員会は無効です。
従ってこの「会則」は根拠がなく効力をもちません。
それにもかかわらず、私はこのような動きを歓迎している。
運営委員会をつくろうとして動いた人がいることは、人生模索の会にとって画期的なことだと思える。
ただ、おしいのは一つの仕組みをつくり、それが少なくとも根拠をもつには手続きを経なければならない。
その点を欠いていたことだ。
これはいずれかのタイミングで満たしてほしいと願っている。


この運営委員会の「会則」の前後に私も一つの文書を出した。
「不登校情報センター利用の手引き
当事者の会(人生模索の会、社会参加を目指すひきこもり女性の会など)の参加者が、不登校情報センターをより前向きに活用するために、利用のしかたをきめます。
〔Ⅰ〕目的その他の一般事項
● 当事者の会の参加希望者は、個人登録し、所定用紙に名前、性別、生年月日、住所、電話番号などを届けます。
● 参加者は、個人的趣味、勉強その他の好きなことを、センター内の場所を使って行うことができます。
金銭、指導員、物品などを利用する場合はセンター代表の承諾が必要です。
● 参加者は、他の参加者によびかけ、2人組、グループ、同好会、サークル、会員制または一時的実行グループをつくって、趣味の会、勉強会、催し物(食事会、ハイキングなど)を行うことができます。
金銭、指導員、物品、恒常的保管場所などを要する場合には、センター代表の承諾が必要です。
● 有益と思われる情報、道具、材料などは、各自の判断で持ち込み、掲示、共用することができます。
持ち込む物が大量、大型、高価または貴重な場合は、センター代表の承諾が必要です。
管理責任は、原則として持ち込んだ当人が負います。」

もしかしたらこの「手引き」の方が「会則」より早かったかもしれない。

この文書もまた、無反応の中に沈んでいったものだ。
私が、人生模索の会を不登校情報センターと一体化したものにするよりは、個人としても、グループとしても相対的に独立したものになるようにしたいと考えていたことは伝わると思う。

(3)

秋が深まるころ、Aくんがまた情報センター、人生模索の会に顔を見せるようになった。
Bくんは違和感と怖れを感じた。
Aくんも実はやってくるのに多少の躊躇があったように思う。
それでも参加を必要としたと思う。
こんな場面が2、3回あった後の12月26日の人生模索の会。
Aくんが参加したときBくんは声をかけ、2人だけで話し合う機会をつくった。
AくんはBくんに対して脅迫めいた話をした。
Bくんは、その点を確かめたうえで一つのけじめをつけたかったのだ。
AくんはBくんに言われるまで、その脅迫的言動がそれほどの意味をもっていることとは思わず、本気で暴力を振るうという気は全くなかったので、言われるまでは記憶としてもはっきりしていないぐらいであった。
だからその言動について「謝るつもりはない」姿勢でいた。
Aくんからの謝罪的言葉がないのがはっきりしたところでBくんにはけじめが感じられず、Aくんがこのまま人生模索の会に来つづけることは、感覚的にも恐れを感じるようになった。
そこで「水曜日の人生模索の会に来ないように」とAくんに言った。
これは先の運営委員会の「会則」に基づくものだと思われる。
年があけてから、このA、B両くんの話の内容を私はBくんから直接に聞くことができた。
運営委員らしい伊東くんが「Aくんは参加しないように」と私に申し入れてきたのに対して、私は「当人から直接に話をきいていない。直接話を聞いてから私なりの結論を出したい」と答えた。


1月23日、Aくんが来た。
そこで、Aくんから12月26日にBくんと話し合った内容とそれまでの経過を直接に聞いた。
一通り話は聞き終えたが、その時間にはまだBくんは来ていません。
Bくんの到着を待って、両者に私の立ち合いのもとで話してもらうつもりでいた。
Aくんとの話を終え、Bくんの来るのを待つ時間に、梶間くんがやってきた。
話の内容を聞かせてほしいというものだ。
梶間くんは伊東くんも話の内容を知りたがっているというので、伊東くん梶間くん2人に話の内容を伝えようと思った。
伊東くんはやってきたとき、1つの文書を用意していた。
Aくんに勧められる居場所情報などを書いたものです。
伊東くんからはAくんの参加は受け入れがたいという主旨の発言もあった。
ここで私は決意した。
Bくんの参加を待っていてはAくんと伊東くんの間にまずい状態になる可能性を感じたからだ。
すぐに人生模索の会の場に行き、また別の部屋にいた人たちにも参加を促して、AくんとBくんの間の「もめごと」を公開で話し合おうと思った。
Bくんは未着だったが、30分後ぐらいしたら来るというのでただちに話し始めた。
その席には、十数人はいた。

(4)

私が公開で話し合おうとしたのは、すでにAくんとBくんの間の個人的問題をこえていたからだ。
集団の中の問題は、いつも個人間の問題として表れる。
個人間の問題もある程度までいくと集団の問題としてみなくてはならない。
すでにその状態に入っていることは明らかだった。
同時に、私はこれを一つのきっかけにしたいとも思った。
それは可能性の1つだったが、大きく言えば、この公開の話し合いの結果、3つの可能性があったと思う。
(1)公開の話し合いの場をきっかけに、人生模索の会がよくなる。
(2)人生模索の会が消失するが、衰退する。
(3)一つのアクシデントとして扱われ、特に変化はない。
もちろん私がめざしたのは(1)だけです。
これまでの経過をふまえたうえで、どういうことをすれば(1)になるのか、それだけを考えていたといってもいい。
「3月末まで水曜日の人生模索の会を中止する」という結論は、それに向かうための決定といっていいと思う。

そうするためにはAくんBくん2人の直接の声を聞き、聞いている全員が自分なりに考え、判断する場にしてほしいと思った。
どういう結論になるにしても、AくんとBくんから、事実関係をよく聞く場にすることが、そこに行く正確な道だと思った。
私なりには、話し合いの場で次のことが確かめられた。
(1) AくんはBくんに対して脅迫じみた言動をした。
Aくんは「自分には記憶はなかったが、そう言われたので言ったかもしれない」ということで、それを認めた。
Aくんにとって、かりに言ったとしても、それは言葉通りのつもりではなく、Bくんから言われるまで記憶になかった。
(2)Aくんにとって人生模索の会に参加する目的は何かと問われれば「ひとを笑わせること」であった。
1、 2の人はそれを参加動機としては否定した。私の考えでは、これは参加目的(動機)としては否定できないと思う。
2、 この言葉の奥には“何かを求める気持ち”があり、それを言葉にできるまでにはそう容易なことではないからだ。
3、 いろいろな気持ちのところで参加していいと考えている。
(3) BくんはAくんの脅迫じみた言動によってAくんに対して感覚的にも恐れをもっており、同じ場にいることは不安である。
(4) 少なくともけじめをつけたい。
(5)Bくんはこの話し合いの結論として、人生模索の会がなくなることはほかの人に申しわけなく、不本意であり、納得できない。
(6)Aくんは自分が立入禁止になる結論になっても「人生模索の会を中止する」という決定と引きかえなら悪くはない気持ちで、それを受け入れる。
このほかにもいくつかの点はあったと思う。
私は、話し合いの途中で4つの方向(結論)があることを示した。
① 人生模索の会全体の中止。
② 部分中止。
③ 当人立入禁止。
④ このまま。
Aくん、Bくんそれぞれが最終意見を言った後、上の四つの方向のどれかに決めることにした。
私が最も重要であると考えたことは、Aくんの脅迫的な言動に対して一区切りできるかだった。
Bくんはそれをけじめであると言った。
それによって全てが終わるとは思わないが、「次が始まらない」と考えた。
この公開の席では、その区切りは得られなかった。
そこで私は①の選択をした。
しかし、この結論を出す前に数人から「中止になったら行き場がない」などの要望が出されていた。
またパソコンサークルや読書会など人生模索の会以外の取り組みが継続する旨の確認もした。
そこで、それらをより正確に伝えるために
「3月末まで、人生模索の会を中止する」とした。
いわば①と②を合算した内容だ。
これが1月23日の結論になる。

(5)

この結論を出したより基本的な理由が別にある。
それはこの公開の席で私が話したことだ。
人生模索の会の問題は、(外から見れば)結局、五十田(松田)の問題である。
その点を外した結論はあり得ない。
表れたのはAくんとBくんの間だ。
しかし、すでに人生模索の会の“雰囲気”の問題として広がっている。
その原因、背景を考えれば、それは私の問題につきあたる。
この公開の場では、私の問題は摘出できなかった。
しかし、経過を考え直すなかで、これではないかというものが見つかったように思う。
それが、先に書いた、「人生模索の会」が「こみゆんとクラブ」から生まれ、別になったはずなのに、事実上少し形を変えて継続しただけのものだった点だ。
③の「当人立入禁止」を望んでいた人がいると思う。
方法は三通りあり、Aくんの立入禁止、Bくんの立入禁止、AくんBくんの2人の立入禁止だ。
それを積極的に望むというよりは何とか人生模索の会を続けたいという気持ちから、その結論を望んだ人もいるだろう。
このように考えるのを私は生理的に好きではない。
それは排除の論理だ。
全体をうまく説明できるかどうかわからないが、いくつかははっきりしている。
Aくん、Bくんの問題を同じ人生模索の会の場に居ながら、しかもそれで多少びくついたりしていながら無関心(というよりは自分のことで精一杯、というのが正確かもしれませんが)であってはならない。
十分に関心をもっていても手も足も出ない、口にも言えないこともある。
そうしても自分だけを維持できるわけにはいかない。
結局は、自分の問題に関わってくる。それは避けることができない。
無関与だったから自分には何の影響もない、そういうことは基本的には世の中にはない。
もう一つ。
当事者の会(注──人によっては自助グループと考えているが、私には自助グループとは何かよくわからない。
したがって私自身はいつもそれを当事者の会とよんでいる)において、この種の問題を、特定の個人を排除する形で解決する方法は、ときにはいじめの一種にもなりうる。
多数決による排除だ。
人にはいろいろ問題がある。
問題のない人がいたらその人はもはや前進することのできない悲運なでしょう。
問題があるから前進する可能性もある。
その問題を持つ本人が望むならその道は閉ざさないでおきたい。
Aくんの場合でいえば人生模索の会に来ることに何らかの意味をみつけている。
それを外側から閉ざさない道は大事だと思う。
ただし、多数決原理や、たとえば規律違反の処分として「立入禁止」的方法をすべて排除するわけではない。
それでスムーズに行き、特定個人の問題を閉ざさない形で進むことはある。
社会的には多数決原理や「立入禁止」的方法はあり得る。
それを安易に考えてはいけないでだろう。
それはいつも少数者の側に当てはめられるからだ。
それに対して、私は立候補・自選型、自己選択型による事態の前進を勧め、歓迎する。
「……したい人」があるグループをつくり、あるいは一人で何かを始めることだ。
③の「当人立入禁止」を選ばなかった根本的な理由は、それは五十田の責任を問わないと考える点が、これらに加わる。
④「このまま」というのは、問題がこれだけ広がったなかでは、ありえないでしょう。
私はこの結論を「編集後記」では「いわば職権で」決めたと書いた。

しかし、厳密な意味はどうだろうか。

人生模索の会は、私が主導する会ではない。
決定は人生模索の会の総意で決定すべきことでしょう。
その総意はどうして得られるのだろうか。
運営委員会での決定でいいのだろうか。
しかし、先に見たように運営委員会と人生模索の会との関係は不明だ。
それは継続的な会の運営委員会としては成り立っていない。
1月23日の参加者の多数決で決めればよかったのだろうか。
私はそれをとり得なかった。
多数決原理による排除に賛成しがたかったし、それ以上に参加者一人ひとりに、よく事情がわかっていない人も含めてどれかに“選択”をせまるのは精神的圧迫になるし、たぶん保留が多くなると感じていたからだ。
しかし、だからといって私が“職権”で決めるというのが是認できるわけでもないだろう。
それは僭越であるし、正常なことではない。
私はそこをふみ越えて、しかしある程度の限定されたなかでの結論を出さざるを得なかった。

この状態は、これまでの問題を別の面から明らかにしてくれる。
「こみゆんとクラブ」から「人生模索の会」が別にできたはずなのに、なぜ「人生模索の会」は姿を変えた「こみゆんとクラブ」になったのか、という背景だ。
もし人生模索の会が、こみゆんとクラブと別の会になるのならば、それはそう願う人たちで運営してこなければならなかった。
それを五十田に任せた形になったこと、両方を並行して運営できる条件になかったこと、そこに別の原因を求めなくてはならないだろう。
ものごとを否定的に考えることはいらない。
いま人生模索の会には、自分たちの当事者の会として、独立して運営したいと考えている人が何人かいる。
それが明らかになったのだ。
1月23日の結論は五十田が出さざるをえなかった。
それは人生模索の会が、当事者の会でありながら、半ば五十田に依存していた会であったことに原因がある。
その状態から抜け出せる条件が広がってきた。
だからこの点の不十分さも目立ってきた、ということだ。
私は、人生模索の会が文字通り自主的で自立的な当事者の会になることを期待している。
それに現実の条件が備わっていることが明らかになった。
前進の条件が備わってきている。


1月23日以降、いくつかの動きがある。
それらは、この自主的な当事者の会への動きを裏付けているように思う。
一つは、これまで2001年秋から駒田くんの呼びかけで生まれ、半ば非公開にしてきた「新ファーストステップの会」をオープンにして参加を呼びかけることになった。
番長(ペンネーム)の名で、次の呼びかけ文が届いている。
「『人生模索の会』から派生した引きこもり自助サークル『新ファーストステップ』を隔週土曜日(月1、2回)不登校情報センターでやってます。
『人生模索の会』との違いは、参加者を社会的引きこもりの当事者、経験者に限定し、将来的には不登校情報センターから独立した完全な自助サークルを目指しています。
参加資格は……
● 主に20代、30代で社会的引きこもりで悩む当事者、経験者。
● 本人の意思で参加し、社会参加への意欲のある方。
● 同じ悩み経験を持つ知人、友人を求める方。
……が基本条件です。
まだ始まったばかりの会で参加者も少ないため、初参加の人、大人数が苦手な人には入りやすいと思います。
コミュニケーションをはかるためレクリエーション企画(食事会、散策、ボーリングetc)等も予定しています。
関心のある方は気軽に連絡ください!!」
以上が1月23日の決定とその背景をまとめた文章である。

この文章を出してからすでに1年以上がたった。

「新ファーストステップ」は独自の自助サークルとして継続している。
駒田くんの思いは見上げたものだと思う。
別の面でいえば、広いスペースをうまく活用できず、この停止期間は人生模索の会を停滞させた私自身の反省の機会でもあった。
AくんとBくんの関係は平行線のままで断絶したまま今日に至っている。
それは当人同士で処理すべきことだと思っているが……。時間とタイミング(機会)が必要なのだろう。

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