(10)親の「あきらめ(?)」と子どもの自由への復帰
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2019年1月1日 (火) 09:36時点における最新版
この論文は『不登校・引きこもり・ニート支援団体ガイド』の序文として書いた「引きこもりからどう抜け出していくのか」です。
(10)親の「あきらめ(?)」と子どもの自由への復帰
このような自然な自分の感情を考えるとき、私がときどき出会う例が“親の「あきらめ(?)」と子どもの自由な感覚への復帰”です。
親の「あきらめ」には(?)をつけました。
本当にあきらめるということはないでしょうが、一時的なギブアップはあるでしょう。
親が子どもの引きこもりを何とかしようと力を張っているとき、子どもは親のその日常の雰囲気にのみ込まれたり、緊張したり、萎縮していることがあります。
親の熱意に応えようとする、自責感がわいてきて、何かそれに応えて脱出を図ろうとするのもよくあることです。
ところが、こういうやり方では必ずしもうまくいきません。
それもまた形を変えた親の意向に沿う動きであって、子どもの自立的な動きではないからです(ただ子どもが十代である場合は、“勢い”のなかで飛び出していくこともありますから、どんな場合でも絶対にダメとも言えません)。
親のこのような熱心な関わりは、たぶん子どもが小さいときから続いていることなのだと思います。
親による過干渉的な愛情表現の別種に思えます。
親の思いに応えようとして、子どもは自分の内面にある生命力、感覚や感性を背後に押しやって、親の意向に従うのです。
その継続の結果が「自信がない」ことになり、引きこもりに状態に入って自分探しをすることになります。
それが長くなり子どもが25歳になった(30歳になった)そのあたりで親も途方にくれ、ギブアップ状態になります。
子どもへの関わりに手抜きがでてきます。
こういうとき、子どもから「気が楽になって、自然に動けるようになった」という体験が生まれてきます。
このことによって自分の自然な感覚で動けるようになり、引きこもりから抜け出るきっかけになったという例はいくつもあります。
また、親の協力をもともとあまり得られていない子どもが、自分で何とかしようと努力を続けてきたけれども、「努力疲れ」になって脱力状態になったことがある、そのときに何か自然な感じで動けるようになった、もちろん寝込むこともあったが楽に動けることもあり、それで引きこもりから抜け出せたという例もあります。
このように語ると、熱心に関わるのがダメみたいな話しで恐縮ですが、これらは実例です。
もちろん、逆のケースもあります。
子どもの言い方を紹介すれば、<これまでさんざん自分をいじり回しておいて、急に掌を返したように「おまえのやり方でやれ」と言われても、自分にそんな力はない。
そういう力を削いできたのは親の責任ではないか。
これまでどおり全部めんどうをみろ>というものです。
しかし、子どもの言うとおりに進むといずれ破綻はさけられません。
子どもが自立できるように、自分の判断で前に進めるように、失敗を恐れて何も手がつけられない状態から、失敗しながらも何かを身につけていけるように支援する方法が必要です。
たとえば、親として納得できないけれども、ともかく子どもが何を言おうとしているのか理解しようとすることでしょう。
その前に、会話がない場合は、親からあいさつの声をかけるとか、外食に誘うなど、引きこもりに関係しない衣食住などの事柄で関わろうとする姿勢をとることです。
これまでの姿勢が、ふと気がつけば子どもを置いて親が空回りしていた…。
それを訂正した方法になると思います。
親のギブアップ状態が、どちらに出るかは、取り巻く条件や環境、親子関係などいろいろなことに左右されてきます。
このほか「不幸」が原動力になる例は多くあります。
父や家族の死、家族のだれかの病気、家業の倒産、隣家の火事、自宅前の交通事故……などです。
これらは引きこもっている人の危機感を高め、あるいは自分の役割を強く自覚させられたり、行動を促すからだと思います。
日本が貧しかった時代は、その貧しさが日常的に危機感をつくり出していたのでしょう。
貧しさとはそういう教育力をもっていたように思います。
それにかわるゆたかな時代の教育力と教育方法が求められています。
(1)引きこもりと不登校、ニート
(2)引きこもりのさまざまな原因・理由
(3)五感が敏感な人たち
(4)第六感としての「心の雰囲気がわかる」感性
(5)自己点検で感情を抑制していく
(6)本人の悩み・訴え・症状と対応
(7)意欲(生命力)を引きだす基本
(8)引きこもりからの回復と母親の役割
(9)反発心が自立には必要
(10)親の「あきらめ(?)」と子どもの自由への復帰
(11)親しい友人づくりと同世代復帰
(12)精神的な健康回復が先行