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Center:2006年1月ー「時間概念」を考える

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「時間概念」を考える

〔2006年1月13日〕 

不登校情報センターのフリースペースに約1年通所し、ひきこもりの人とフリースペースのフィールド調査をした堀口佐知子さんが、その成果をまとめ、ある雑誌に投稿します。
掲載以前に草稿を見せていただきました。
ペー パーのタイトルは〈日本の「ひきこもる若者たち」と日本社会の時間的拘束について:ある「ひきこもり」支援団体における時間管理と概念〉(Japan's 'socially withdrawn youth's and time constraints in Japanese society  :management and conceptualization of time in a support group for 'hikikomori')です。
〔雑誌掲載後に不登校情報センターのホームページ「調査企画」に収録予定〕

私が取り組んできたことを、別の視点(ここでは「時間」)から見て描いているわけで、なかなか興味深いものがあります。
私がその「時間」についてどのように考えているのか、それをこの論文に触発された形でかいてみました。
これは堀口佐知子さんへの感想文であり、論文に書かれている事情の背景説明にもなるでしょう。

不登校情報センターに彼女が通所していた時期のフリースペースの様子、およびその説明 に関しては何も言うべきことはありません。
かなり正確な描写がされていると思います。
ただ「結論」部分で、ひきこもりの時間概念については次のようなところがあり、少し丁寧な描写がほしいと思いました。

こう書いています。 「ひきこもりは、社会の時間的および空間的拘束から撤退行動であり、一度ひきこもりになると人は時間や役割を果たすことのプレッシャーに適応するのが困難となってくるのである」。

この文章の前半部分を、私の感覚ならより細かく表現するでしょう。
たとえば「ひきこもりは自分の周囲にはりめぐらされている時間的拘束にあるときは疑念を抱き、あるときは了解し、別のばあいは異議申立ての感情が起こり、その積み重ねのなかでやがてこの時間的拘束を設定している社会からの撤退行動を始めたものである……」のように。

さて、堀口さんのこの論文の視点である「時間」に関しては、ひきこもり当事者が参加する取り組みを企画するとき、私の方で「時間」を特別視したものではないはずです。
しかしあらゆる取り組みに時間的要素は付随しています。
それを外側から観察し意味づけてもらうことはおおいに参考になります。
時間概念は取り組みの付随要素であり、その視点からひきこもりを理解しようとするのはいい着想だと思います。

この論文を読んで改めて感じることは、私はひきこもりとフリースペースに関して時間の面でも配慮していたことを認めないわけにはいきません。
私はあまり意識せずに時間処理をしていたわけです。
無意識、無自覚に対処していた時間概念はそれだけに私の取り組みを見ていく参考になります。

それは不完全であり、ある方向に向かっているようには見えても、目標が明確になっているとはいえないようです。
その部分を描くことは堀口さんの論文のフィールドワーク的部分を補足することにもなるでしょう。

ひとつの要素は日本社会(とくに企業社会)で使用されている時間概念に、私はひきこもりを「適応」させようとはしてはいないことです。
何となくそうしていたことを自覚させられた思いです。

一方、ひきこもりの人の成長にとって、社会生活に必要な時間的拘束(概念)は不要であると考えているわけでもありません。
彼(女)らの成長にとって、社会参加を考えるかぎり、ある程度の時間感覚を見につけることは必要であると思います。

この2つの時間拘束の"中ほど"で、私は取り組みを進行させていたわけです。
しかし、その最適レベルには個人差があり、全体としては時間拘束の低いレベルを設定し、個人差をそのうえに重ねているように思います。

この背景説明的な時間拘束の実現環境に加えて、現実的な要素と、私なりに確信をもっている事情が重なります。
現実的な要素というのは、不登校情報センターのフリースペースに来ているひきこもりの年齢は20代後半以上の人が中心を占めていることです。
もし十代や20代に入ったばかりの人であれば、現実社会の「時間的拘束」を身につける(適応させる)面に、もう少し重点をおいていたはずですが、その方法はこの年齢層ではいい選択とは言えないでしょう。

それに加えて、ひきこもりに対する私なりの一つの確信があります。
他の社会グループに比べ、ひきこもりの人は繊細な感性の持ち主が多く、創作活動の面に優れた才能を発揮することです。
そしてその先にある社会生活(とくに生産的活動)における姿は、自由業(自営業)、SOHO型または芸術家タイプ(手芸・工芸を含む)ではないかと思います。
これは以前に「引きこもり経験者が望む将来の姿」という調査である程度裏づけられたものだと思っています。

当然、フリースペースに参加するひきこもりの中には、私の意図を超える人もいますし、むしろ私の意図などに無頓着の人が多いでしょう。だから企業社会に入ることを望む人もいるはずです。
その人は私のような「時間拘束」のルーズさには、歯がゆい思いをしたり、自分で新たな道を探して進むことになります。
それは自己決定のしかたとして肯定されるものでしょう。

そしてこのような自由業などのタイプの社会人は、時間拘束の面でももう少しフレキシブルです。
もっとも私はそれを意識してフリースペースの時間的配慮を設定したわけではありません。
現実の「時間処理」はその意味で、動揺的であり、中間的であるといえるわけです。

以上で堀口さんの論文に関わる事情説明は終わります。
しかしこの際ひきこもりと時間概念、および実際的なことを2、3追加説明しておくことにします。
時間概念というよりもひきこもりを理解していく面で一歩前に進むことになるはずです。

1つは、生産活動と時間の関係において、芸術的創作活動の価値は、その創作(生産)時間の量によっては計られないものです。
他のほとんど全ての生産活動は、その仕事に関わった時間(社会的平均的な時間)によって、価値の大枠が決まり、需要と供給のそのときどきの変動になかで小幅な価格変動を示しますが、芸術的創作活動の成果は、それとは異なります。
創作品の全部がここでいう芸術的創作活動の成果になるとは思いませんが、それを含む世界、少なくともその周辺で何かを手がけるのがひきこもり経験者のある部分の社会参加の形として思いうかぶのです。

2つめ。
堀口さんの提示した時間概念は、ひきこもりと社会参加(社会生活)の関係で浮き彫りになっているものです。
ひきこもりと関わるなかでは別の時間概念があります。
それは人間存在の場としての時間と空間を感じることです。
このような人間存在としての有無を巡って、時間そして空間と人間という哲学的な問題意識を提示する人も、数いるなかにはいくぶん混じっています。
他の社会グループと比較できるとすればかなり高い割合を示すと思います。

最後にもう1つ。
フリースペースを開設するのに「時間拘束」を重視していくのは、精神衛生上かなり疲れることです。
ひきこもりのこの面での「手強さ」を知れば、そういうエネルギーの使い方はしないように思いますが、どうでしょうか。
それは開設のしかた、運営のしかた、スペースの条件、スタッフその他の条件によっては、相当程度に「時間拘束」要素を加えられるので、「一概には言えない」となるのでしょうか。 

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