Center:2000年4月ーひきこもりの背景(未完成メモ)
ひきこもりの背景(未完成メモ)
〔A4版のノート4枚に書いた未完成のメモ。
2000年4月20日の日付があるけれども、書いたのはその日だけではなさそう。
「ひきこもりの背景」とするエッセイの構想とまえがき部分に相当する未完成のメモと思われる。
特に終わりの部分はバラバラの単語が羅列しているだけであり、意味がなく削除。
その部分を含めて原文の90%以上を保持。
サイト掲載は2012年6月7日〕
「1」
自立――遊び⇒子ども時代の喪失
自立(主権者、生活・政治・性)
桑田先生「みんな普通の大人になる」=前提としての社会参加、大人になる社会人。
遊び(体感的人間情報入手、親と離れる時間・空間)。
「ひきこもり」の発生パターン
(1)病気および心身障害によるもの――身体的ひきこもり
(2)学校時代の不登校から継続するもの(転校、新入学、いじめ、身体条件(病気以外)の)――社会的ひきこもり
(3)学校時代の不登校をいったん回復し、再発するもの――社会的ひきこもり
(4)高校卒業後ひきこもるもの――社会的ひきこもり
大学生(専門学校・大学など)、出社拒否、就職拒否、フリーター。
別の分け方として
<燃え尽き症候群・よい子症候群・AC>…男女差?
<性格的特徴―まじめ・やさしい・神経が細かい、正直>
ひきこもりからの復活をめざして…男女差?――原因または様態論。
(1)基本は対人関係不安、コミュニケーション不全の回復(最重要)
サークル(自助グループ)、訪問サポート、インターネット、文通、福祉、諸機関サポート、カウンセリング・医療、あらゆる社会資源。*仕事、結婚。
(2)自分さがしの過程をたどること
周囲の人(家族、先生、友達)にあわせることの疲れ、二重メッセージ。
親子関係、家族様式(パラサイトシングル、AC、よい子症候群、ジェンダー(フリー))。
(3)社会的要件として基本的な学習の遅れの回復、高校卒業資格。学歴・知育偏重社会。
(4)仕事さがし――不況と社会の変動のなかでの職業さがしの困難性との闘い(雇用制度の動揺と新しい仕事のしかたの…)。
「2」(まえがき?)
今年になってから、引きこもりに関係する相談が増えている。
ちょうど新潟県での女性監禁事件の発覚や、京都での小学生男子殺人事件の容疑者がともに引きこもりの青年であり、それに関する報道が多かった時期である。
相談を通しての私の実感では、ひきこもり(または不登校からひきこもりになっていく子どもや若者)の多くは、真面目、やさしい、神経が細やか…などの性格でかなり共通しており、一般の若者にくらべて、このような行動をする比率は極端に低いのではないかと思っている。
しかし、こういう社会的に関心の高い事件が重なったことで、それを心配して相談しようとした人が多いのではないかと思う。
推測では公共の相談機関(保健所や児童相談所)では特にそういう傾向が出ていると思うのだが、どうだろうか。
こういう例もあった。
16才の女性。
中学校時代から不登校で卒業後も引きこもり気味。
その本人から「…新潟の事件があったでしょう。少し心配になって…」。
何が心配なのか、自分もまたそういう極端なことに走ってしまうのではないかという、先回りの心配なのだ。
私への相談ケースでは、この16歳の当人からというのは一人であった。
多くは母親(または一部父親)からのもので、相談対象者は、当人からの相談を含めて、20代後半が多く、20代前半や30代の人が少しいたように思う。
これまでは、ひきこもりに関する相談は、継続していた。
だいぶん前から主に通信制高校生や大検生を中心として不登校生や高校中退経験者のサークルをつくっていた。
「こみゆんとクラブ」というのだが、昨年には、そのサークルに重複する形で、ひきこもり経験者による「人生模索の会」というグループができ、ときどき会って話を重ねているところだった。
不登校にしても、ひきこもりにしても、最も重要な特色は、対人関係の不安、恐怖であり、その根底には人間を信頼しきれない何らかの生活体験、あるいは生存体験があるように思える。
このことは、人間という動物、霊長類ヒト科の動物は一頭(一人)だけでは生きていけないという特徴をもつことを強く確信させる。
それはたぶん、幼年期や乳児期にまでさかのぼるものだと思うが、私のところに相談に来るのは、小学校高学年、いわゆる思春期以降の子ども、そして20代の青年たちまでのことである。
幼児期から中学生ぐらいまでの生活では、遊びの喪失がきわめて重要な意味をもっていると思う。
(それ以前の乳幼児期についてはよくわからないが、人によっては最大要因として指摘する人もいる)。
毎日の午後、たぶん3時ごろから6時ごろまでの町中や周辺で、子どもたちの遊びまわる声の小ささはどうだ。
私の子ども時代の話となると大昔すぎるかもしれないが、しかしたぶん日本人の歴史で、この時間帯に子どもたちの遊び回る姿や声がすくなくなったのは。この2、30年のことに
限られるのではなかろうか。
子ども世界に大きな変化が起きている。
不登校やひきこもりの子どもが多くいる一方、遊び回る子どもがめっきり減っていることが表裏の関係になっていることを忘れてはならないだろう。
これは遊びの喪失であるとともに、日本人における子ども時代の喪失とも思えるのだ。
遊びとは何か――不登校の子どもたちの姿から思えるのは、次の2つのことだ。
第一は最大の体感的情報入手可能な人間学習の機会がなくなっていることである。
人間を教科書やテレビで学ぶのではなく、からだとからだをぶつけあい、本気で本音を語り、喜怒哀楽を示しあう機会、夢中になり、それに没頭し、周りが見えなくなる純の世界、次々にやりたいことが浮かび、新しい遊びを生み出す時間、それが子どもの遊びである。
子どもは一緒にいる子どもを教材とし、自分自身もまた全く無自覚・無意識のうちに教材になり、人間のつよさ、よわさ…を知識としても、五感を通して情報入手する対応としても、互いに動き合う変化し合う心の持ち主としても学んでいくのである。
遊びのもつ第二の意味は親あるいは大人と離れている時間と空間の確保である。
保護された時間空間で出なく、子ども同士がお互いに競い、攻め、守り守られ、支配しつき従う時間の獲得である。
親(あるいは大人)は、放任しながらも安心して安全を委ねられる時間である。
私の目の前にやってくる不登校やひきこもりの子どもや若者は、「遊んだ経験が少ない」という顔つきでは来ない。
親が相談にきても、遊びというのはあまり話題にならない。
学校に行っていない、ひきこもっている…というところから話は始まる。
性格的なことで、真面目、やさしい、神経が細かい…と並べてみると、ほとんどの人がそうで「そうだ」「ぴったりする」と答える。
こういう子どもたちにとって、たぶん遊びの欠如が、人間関係を結ぶ上での困難につながりやすいのだと思う。
不登校といっても、非行傾向の子どもたちは、エネルギーがある、元気がある。そういう子どもは、対人関係での困難は少ないように思う。
ではなぜ、「真面目、おとなしい、やさしい、神経が細かい…」という子どもが不登校やひきこもりの子に多いのか。
あるいは対人関係を結ぶのに困難になっているのか。
いくつかの理由づけが考えられる。
それを分類的な方法ではなく、状態につけられる名称によって考えてみよう。
(1)よい子症候群:*青い鳥症候群、甘やかし。
(2)ジェンダー(~らしさ):自分を愛せない、先回り。
自分らしい、自分の発見、調整能力。
(3)ダブルメッセージ:(親子の)共依存、ストーキング(つきまとい)、バランスの悪さ、執着心。
(4)アダルトチルドレン::
(5)社会的ひきこもり::
パニック障害(PD)、視線恐怖症(対人恐怖)。
子どもは親に心配をかけながら成長する。
それがずーっといい子だったのは、親がそれを受け入れる、子どもがずっとがまんしつづけ、親にあわせてきたからだ。
子どもたちの失敗を、温かく見守ろう、失敗を楽しもう―子どもの失敗は成功するための助走みたいなものだ。
赤ちゃんのよちよち歩きが、本当に歩き始めるのに必要な準備のように。