Center:1998年9月ー『いじめとの九年戦争』への「監修者より」
『いじめとの九年戦争』への「監修者より」
〔桜井愛『いじめとの九年戦争』、桐書房、1998年10月発行に執筆〕
著者、桜井愛さんは、中学時代の体験手記の前に、小学時代6年の手記も書いています。
合計九年間が、いじめを受けた期間です。
書名に〈九年間〉を採用したのは彼女の気持ちに即したためです。
彼女が今日、関心を持つテーマは、AC(アダルト・チャイルド)とLD(学習障害)のようです。
中学卒業後の軌跡のなかで、このテーマに関心を持つようになったわけですが、その経過はさらに別の一冊を要するでしょう。
中学時代の3年間の手記のなかに、監修者として、一読者として読み、勉強のできない側の論理というものに触れました。
私たち大人、あるいは教師は、子どもに接していて、事柄の正面から見る以外の人間の発想にふれる機会が案外少ないように思います。
その面を本書で見たわけです。
勉強ができない側にも別の心理作用(論理)があります。
これと大人の側の論理とのすれ違いが、信頼関係を築いていくのを妨げ、むしろ誤解を増幅させていることがわかります。
これは、大人や教師がよかれと思ってすることが、空振りに終わったり、子どもから大人は妨害していると思われてしまう要因の一つです。
それに加えて、教育という形で大人の特異な価値観を子どもに押しつけることも関係しています。
たとえば学歴が人生を左右する。
人生にとってお金は決定的であり、合法的なら(程度によっては多少逸脱していても)どんな形でも金儲けに走る。
人間を競争状態におけば強くなる…などがそういう価値観の例になります。
実際場面ではこれらはもっと細分されて子どもの前に示されます。
その大人の価値観に対して、子どもが正しいあり方を説明するのは困難です。
その違和感に反論するという形で論理展開できません。
あらぬ反発をしたり、逃げ出したりします。
その反応は筋の通ったやり方ではないと思いますが、私は子どもの側に分があると思います。
桜井さんの今回の手記は、その実際の姿を彼女なりに示しています。
ある行為や発言には理由がある、しかしその理由を説明するのは難しい、そのときの反応は迂回した表現にならざるをえません。
表面の現象(言葉や行為)と表現したいことがらとの間に乖離(かいり)が生じます。
社会的に弱い立場の人(子ども、障害者、少数者…)には特に、このようなことへの配慮と大人の側の洞察力が求められると思います。
さて、エコーブックスの続刊をめざし、不登校生、中退者を中心とする「こみゆんとクラブ」のメンバーに、体験手記を書くように呼びかけています。
数名が挑戦していますが、必ずしも順調ではありません。
「どう書けばいいのか」「地名も匿名にできるのか」……こういう問合せ電話が、深夜にかかってくるのは、たぶん深夜に書いているからでしょう。
「出来上がったので読んで」という人も何人かいます。
私が読み、感想とともに書き直しを求めた人もいます。
まだ書ける状態・時期ではないと気付く人もいます。
一冊の本としては原稿量が少なく、テーマが共通する別の手記を待つ形になっている人もいます。
これらを乗り超えて、このシリーズを続ける道は、多くの方からの手記を寄せてもらうことです。