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『ひきこもり国語辞典』は文学に扱われるか
『ひきこもり国語辞典』を文学と模すればどういうジャンルになるでしょうか。
おそらくそのようなジャンルはありません。
しかしこれを文学的な創作と考える枠組みもあるのではないか。
そう考えるとこれは新しいタイプの文学になります。
名称に国語辞典とありますが、国語辞典からは仲間に入れてもらえないでしょう。
仲間に入るつもりはないし、仲間に入れませんといわれても意地が悪とは思いません。
なぜなら国語辞典という名前がついていてもそういうものではないことを知っているからです。
国語辞典にも、時代に対して、流通していることばの状況に対して、流布しているほかの国語辞典に対して、何らかの新味や対抗感をもつかもしれません。
私が愛用している『新明解国語辞典』にはそのような息吹を感じます。
しかしあれは国語辞典のなかの話しです。
『ひきこもり国語辞典』が国語辞典の名を持つのは、語句・単語を短く説明していることと、その単語を五十音順に並べている形式によります。
内容には『新明解国語辞典』が辞書の範囲で試みたことを、辞書の枠を超えて実現しようとしています。
それは社会批判の精神、少なくともそこにつながりです。
ひきこもりとその周辺にいる人たちが実感し、自然に出てきたことばに、彼ら彼女らの社会的におかれた状態が表われています。
彼ら彼女らは日常的な弱者であり、マイナス感情とマイナスことばを重ねています。
しかしそこに留まっていないとき、その現実に根ざしながら笑い飛ばし、悪びれずに表現すると、見事な社会批判になります。
この『ひきこもり国語辞典』にそのような精神を読み取っていただきたいものです。
この時代ではひきこもりに限らず社会的な弱者、社会的な底辺を構成する人がそれぞれの特質を持ちながらも接近しています。
『ひきこもり国語辞典』としてひきこもり世界から抽出してきたことばが、この人びとに共通する感情、振る舞い、ことばになりつつあるのです。
ならば『ひきこもり国語辞典』で積み重ねてきたことば辞典方法を、一つの文学形式として世に問う気持ちになってもおかしくないと思ったのです。
通信手段が高度に発達し、メールやツイッターなどの短い電子文字が頻繁にやりとりされる今日、その日常にも文学的な要素が生まれるのかもしれません。
それが語句・単語を基礎とする辞書ではないのか。
文学には、物語、詩(散文、短歌、俳句…)などの形式があります。
それはそれぞれの時代背景の中で、ことばによる事物、出来事、感情の表現として生まれたものでしょう。
この時代の新しい形式として、語句・単語を説明する辞典形式が文学として登場するのもありではないかと思ったのです。
特徴の別のものは、私が見聞きした生の言動を“編集”していることです。
聞いたままのことばや振る舞いをそのまま辞典のことばには載せられないものがあります。
この『ひきこもり国語辞典』に掲載してあることばには私の編集を通して文字になったものが多くあります。
芭蕉が俗語を正しい詩語に正したように、私は生の言動を辞書のことばに編集したのです。
こういう編集はいずれ不要となるのかもしれません。
そして、『ひきこもり国語辞典』を文学ではないかと提示しますが、判断は私がすることではありません。
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