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科学とともに、科学を超える宝物
『相対性理論を楽しむ本』―よくわかるアインシュタインの不思議な世界―
佐藤勝彦・監修、PHP文庫、1998年。
〔2011年4月28日〕
統一場理論における力―「現在、自然界に働く力は、どんな力でも『電磁力』『重力』『強い力』『弱い力』という四つの力のどれかに分類することができます。たとえば、筋力を動かす力は、ATPというリン酸の一種がADPに変わるという化学反応により筋繊維が収縮することで生まれます。化学反応とは、電子と電子、電子と原子核(48ページ)の間に働く力なので、筋肉を動かす力は、電磁力の一種だと言えるのです」(49ページ)。
この本には宇宙と世界を理解する物理法則が書かれていて興味深いです。特に時間の式(110ページ)、動いているときの質量の式(138ページ)、エネルギーと質量の式(150ページ)、重力場の方程式(154ページ)は今後も見ていきたいのですが数式の書き方がわかりません。それは保留するしかありません。いずれも相対性理論を表わすものです。
重力場の方程式について。「右辺に示す『物質の持つエネルギー』が左辺の『時空のゆがみ具合』を決めることを表しています」(166ページ)。
「一般相対性理論の偉大さは『物質が周囲の時空をゆがめる』ことに気付いたこ(167ページ)と、すなわち、無関係と思われていた『物質』と『時空』とが、お互いに影響しあうものであることを見抜いたことでした。
つまり、物質があるということが、時空のゆがみ方を決め、逆に、時空のゆがみ方が、重力による物質の運動を決めるのです。物質と時空とは、独立して存在するのではなく、相互に関係するものであり、いわば一つのものと言えるのです。
特殊相対性理論は、それまで別々に考えられていた時間と空間を、一つの時空として統一しました。…一般相対性理論は、それまで『中身』と『入れ物』として別々に扱われていた『物質』と『時空』を統一した、すなわち、時間・空間・物質をすべてまとめ上げた理論なのです」(168ページ)。
〔所感〕
宇宙的な範囲で時間・空間・物質には相互関係があるということ、その影響は宇宙のなかにおいて偏りが生じるとしても(そんなことはまるでわからないのですが)、極小的な1点、すなわち天の川銀河や太陽系や地球という極・極点においては、時間・空間・物質のそれぞれの状態、運動と静止と変転は、それぞれがお互いにかなりの程度影響しあうものと考えてしかるべきでしょう。
物理的にみる物質の範囲には、地球においては人間社会も入らざるを得ません。
その関係を粗雑に省略する気はないのですが、ただ記述をするには不明点が多すぎるのです。
地球において人間は生物のなかで特殊な位置を占めました。しかし宇宙的な範囲からみれば物理的法則、自然法則から逃れることはできません。
それを前提として、そのベースの上に人間が固有につくり上げ、保持している文化や精神活動があります。
そのなかにはある種の法則性が働きます。それは宇宙の物理的法則、自然法則から独立しては存在しえません。
つまるところ両者は相互関係においてつながるのです。少なくともつながったうえで、独自性を持つのです。
このつながり方を意識しないできたのですが、古来多くの人たちは、それぞれの文化的背景の中で、それぞれの個人的な能力を発揮して無意識、無自覚にあるいは勝って放題にそれを求め、成果を主張してきたのです。
科学の誕生も“神の意志”の探求から始まったわけです。そのことは科学がなんら特別の出発点を持つものではないことを裏付けています。
キリスト教的文化を背景にして始まり、現代の科学として成長したものです。
ふるい落とされた他の方法は、残らなかったようでいて実はそれぞれの文化的背景の中で保存されてきたのです。
科学は当時の人間の合理的判断を得られるものだけを科学の仲間入りにさせてきました。
幸運にも科学の仲間に迎えられその後の継続が図られたものがある他方には、あるものは廃れ、あるものは神秘的な集団のなかに細々と保存されるしかなかったのです。
科学が登場するとともにそのような科学と接点を持たない文化や伝統は文明社会から追放されていきました。
科学からの容認を必要としない芸術、技術、信仰などは継続しました。
これらの科学と並行して続いてきたもののなかに、あるいは西洋の文明世界との接点や攻勢から逃れてきたもののなかに、宝物が潜んでいるのかもしれません。
それを引き出し、新たな可能性とエネルギーを与えるのは現代物理学や多くの分野での科学的な視点や発想によるかもしれません。
理科実験室で可能な同一条件を設定し、くり返し再現でき証明できるレベルを超えた論理と、証明方法が開発され、認められています。
統計学的な処理による証明方法の有効性はわかりませんが、証明方法は広がり、証明はできないまでも、仮説的な理解、了解的な理解も存在の意味が認められているように思います。
事物を正しく理解する方法は、科学的な方法に限らないと言い換えられそうです。それはイコール反科学ではありません。
例えて言えば科学が理解できるのは品行方正なもの、整っているものです。
乱雑になっている、動き回っている、変化が不規則なもの、微妙であり意識の作用が影響するものなどには手こずってしまうようです。
これらをさらに言い換えれば、科学は人間の意識から離していけるものは得意であるが、意識が入るものは意識を取り除こうとして上手くいかないのです。
人間の意識は人間のものであるとともに周囲の環境から人間に取り込まれているので取り除きようもないのです。
周囲の環境は世界に、宇宙につながっています。それは人間環境が作用するばかりではなく、自然法則が作用する場です。