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引きこもりの文化的・社会的な背景
〔2011年3月29日〕
*以下のノートは「103-きっかけ」に当たる部分を書いた記録で、2006年7月頃と推測されます。
この部分が「元・無神論者の祈り」の初めであり、調べたところ11件の記録がありました。
この最初のノートは経過がわかるだけであり、内容的にはほとんど意味はなさそうです。
〔2006年7月ころ〕
ハワイ在住の日本人研究者、サイコセラピスト(N.OHASHI)がひきこもり体験者の取材(インタビュー)することになり、情報センターに来られた。
情報センターの関係では4人が取材を受け、それが一段落したところで、感想を聞いてみました。
ひきこもりの原因の根底には、儒教の影響と母系家族があるのではないか。
次に社会的精神的背景には、第2次世界大戦を終えたところで、ヨーロッパ(ドイツ・イタリア)とは異なり、戦争責任不問のまま高度経済成長期を経て日本は復活した。
日本近代百年の中で功も罪も仕分けされないまま現代に至っている。
その精神的な表れの一つが引きこもりではないか。
ごく短時間の会話ですが、これが、(N.OHASHI)さんの話の筋になりそうです。
それぞれの論点をどう結んでいるのかを、詳しくきくことは出来ませんでしたが。
その翌日(7月14日)、私はイタリア国営テレビの取材を受けました。
テレビは著名な医師の取材を終えていましたので、私は「あまり論理的なことではなく、現場で見聞きしたことを話すのでよろしく」とこの取材を受けることにしたのです。
振りかえると、1時間程の間に具体的な話にはあまり入らなかったように思います。
それ以前にテレビ側では基本的に「ひきこもり」を理解しようとすることが必要だったのかもしれません。
はじめの問いは「ひきこもりの背景は、日本の母系社会みたいなことが関係しますか?」というものでした。
私は、一瞬、“母子密着”方向の話にすすめるのか迷いました。
イタリア人には、日本人の集団主義的性格の奥にあるものを説明した方がよかろうと思い、それを答えにもってきました。
たぶんOHASHIさんの話しが私の頭の中で作動したのです。
キリスト教文化圏のおける個人中心に対して、日本人は儒教文化圏の中にいます。
自分よりも他者を配慮し、他者の意志、意向がどこにあるのかを見極めながら、自分の姿勢や行動を決めていく。
これが日本人の集団主義の背景にあり、また、日本人の集団性を特徴づけています。
これが自分と他人との関係で「他者の配慮」がとくに強い人がひきこもりになりやすいのです。
文化的背景と社会的背景は同じではないので、それにつづいて2つの事情を話しました。
地域共同体の崩れと家族の変化です。
戦後の高度経済成長の時期以降、日本では農村から都市への大規模な、人口移動がありました。
それは産業面では、第一次産業(農業)から第二・三次産業(工業や商業、情報)への移動です。
この人口移動で人口が集中した都市には隣近所に見知らぬ人が集まる地域が生まれ(地域共同体の未成立)、家族は切り離され都市に出た子どもはそこで核家族を形成することになったのです。
これが、社会的な背景としての引きこもりを生みやすくしています。
とくに、家族の衰退においては、子育てにおける父親の後退(または排除)があり、それに反比例して母と子の距離が接近している、閉鎖的な母子関係が成立しやすくなっています。
こう書いてみると、N.OHASHIさんが語っていたことと、私がイタリア人に語ったことには大差のないことになります。
第2次世界大戦における責任者の扱いがヨーロッパと日本では異なっている点に私は触れませんでした。
おそらく国民的な民主主義革命の達成の有無が関係し、それが近代的な個人の成立に影響していると推測できますが、私にはうまく説明できそうにないのでやめました。
キリスト教文化圏と儒教的文化圏の対比は、その違いの一面を緩やかに表していますが、事の本質全体を示していないので、私の不勉強が表れています。
取材の後半では、なるべく具体的な事例を話しました。
どうやら引きこもりの典型的な例があるらしく、ときどき「わからない」「驚いた」という表情をします。
引きこもりとは十代後半の子どもが自分の部屋でじっとしている。外出していないので母親が心配している。というイメージで描いているのです。
それはたしかに引きこもりですが、引きこもりの中心が対人関係にあり、外出する引きこもり、人と直面したときや社会生活の中で表われる引きこもり的反応の実例(それは個人差がある)あたりでは、とまどったように思えるのです。
それらについてはここでは省略します。