Center:IM氏は当時からわかっていました
IM氏は当時からわかっていました
〔2011年08月27日〕
「不登校情報センター被害者の会」の「まえがき」の経過を書きます。
IM氏がこのように“自分を晒して”いるのを気の毒に思うし、いらんお世話かもしれないが…。
2006年年11月「杉並区社会教育センターでの進路相談会」のとき作成した冊子に不登校情報センターの自己紹介を載せました。
〔自己紹介・アンケートへの回答を参照〕。
そこに不登校情報センターを次のように書きました。
「Q2 特色・支援内容について
当事者の潜在力と自発性を信じて、各人の思いつきやできそうなことを、なるべく制約せず見守る形で進めてきました。
仕事おこしは『最大の目的』になり難関であり、苦心しています。
Q3 身に付く知識・技術、取得できる資格について
『自分が動かなくては、何も始まらず、何も進まない』ことを学びます。
人間関係づくりとパソコンの操作に目的ができ、それぞれに応じて上達します。
Q5 どのような人に向いていますか? どのような人が不向きですか?
『自分は何もしないですが、何とか助けてほしい』という人には特に手助けできそうにありません。
不安を持ちながら、自分なりに(自分勝手だと思えても)少しずつ動こうという人には、それにあった方法が考えられると思います。」
この文書は私が書き、IM氏が文書入力し、また冊子の表紙の制作もIM氏に頼んでまとめたものです。
そのとき不登校情報センターの紹介記事を「そのまんまじゃないですか」と彼は言ったものです。
松田が考える支援の基本スタイルであり、いまもほとんど同じです。
IM氏が初めて来たのは2001年2月です。
2006年に「そのまんまじゃないですか」と彼が言うとき、それまでの関わりでわかっていたIM氏の不登校情報センターの認識であり評価が表われています。
2007年か2008年に、私はIM氏をある団体に紹介し、そこで非常勤の仕事をすることになりました。
それとともに不登校情報センターにやってくる機会も徐々に減少しました。
不登校情報センターを外側から見る条件が少しずつ強くなったのでしょう。
私が自分のアスペルガー気質を認識したのは2007年10月ころです。
2007年10月にその事情をミニ自伝「Center:2007年10月ー情緒的な友人関係を得ず、公平な人間関係にすすむ(前編)」などを書き、IM氏がそれを文書入力しました。
その後2008年4月にこれらを文書数点と一緒にIM氏がシリーズ「五十田猛のエッセイ」サイトにアップしています。
*「Center:2008年4月ーアスペルガー的自閉傾向の理解(試論)」もその一つです。
IM氏にとっては私を理解する手がかりができたのかもしれません。
時期はよくわかりませんが、たぶんこのしばらく後にIM氏はある医療機関を受診し「うつ病」の診断を受けました。
2009年秋にHCさんが自死をしたのがもしかしたら重要なきっかけなのかもしれません。
2010年1月に親から「あんたのこと、扶養するの疲れた」といわれたのも重要かもしれません。
2006年11月に書いた不登校情報センターの支援スタンスがIM氏には容認できなくなったのはこれらの事情が関係するように思います。
いや特定のどれかが決定的な原因というのではなく、全体に精神的トーンが落ちていた、そこに格好の対象が見つかったということかもしれません。
いずれにしてもこれらは私が知りうる背景事情であり、そこからの推測に過ぎません。
その後、「ウィキペディア」の出来事があり(2月初めに書き込み、5月中旬に書き込んだもの全部が削除された⇒「ウィキペディア記事の顛末」を参照)、そしてこの「不登校情報センター被害者の会」が2010年2月27日に出来上がったのです。
IM氏は初めから『履歴書に職歴として書けない・社会で通用するスキルも身に付けられない様な不登校情報センターで、「支援してあげる」「貴方の為になる」というニンジンを鼻先に吊るされながら』来ていたのではありません。
来てから5年以上経た時点では、そういうものはないと知っていました。
満足してはいないでしょうが、攻撃対象ではありません。
「だました・だまされた」関係でもありません。
2006年11月のIM氏の言葉と振る舞いはそれを証明しています。