Center:通所者スペースのデメリット⑥
通所者スペースのデメリット⑥
〔2010年05月27日〕
「デメリット」として書いたことへの意見の続き。第8・9項のところです。「デメリット」項目の最後になります。
ウィキぺディアへの記載者はT=、私の感想・意見はM=の形にして分けています。
T=なお、「ある人が来ることによってあなたが不快だと思うなら、その人と違う日に来るか、鉢合わせをしたらあなたのほうがここを出て行ってください」という運営方針であり、
「低額でもお金を払っている以上、自分もそこに居る権利があるのに、なぜ自分が出ていかなければならないのか」という通所者の反論に対しては、
「月会費500円でそのような要求を満たす態勢を整えることは不可能」というのが松田理事長の見解です。
M=松田理事長の見解をこの場に限定して引用するのは自分勝手な引用だと思います。
2001年以降はスペースが広く、苦手な相手がいても違う場所にいることができるので、
このような状態は“ほどよい(?)”程度の体験として過ごすことができました。
2005年にスペースは移転し狭くなりました。
その条件で「低額でもお金を払っている以上、自分もそこに居る権利がある」という権利を持ち出し、
相手を来させないようにするか、仲介・緩和役のスタッフを求める気分が強まったのです。
しかし自分が不快と思う相手にも同じ権利はあります。
狭いスペースでの個人の対応は限られますが、町中の施設ではそのつど仲介役はいません。
“鉢合わせ”うんぬんの言い方をしたことはないですが、通所者の受けとめ方にはあるうるでしょう。
これに各人がそれぞれの方法で対処する、その経験もまた対人関係や社会性の“修行”の範囲のことです。
T=のウィキペディアへの記述は、理屈が達者になって自分を守ろうとする幼稚性を感じるものです。
これを“屁理屈”といいます。
T=同センターには、とくに決まった引きこもり支援のメソッドが用意されていない。
そして前述のとおり「いろいろな人」を受け入れているので、通所者の成長に与しない人と出遭ってしまう可能性もある。
よって、同センターへの通所によって引きこもりが改善するか悪化するかは「運に依るところが大きい」と言える。
M=「支援のメソッド」という大げさな言葉がどこまで指すのか混乱しています。
フリースペースの設定、対人関係づくりは「メソッド」なのです。
しかし執筆者にとってはメソッドには入らないのでしょう。
それを超えた個人個人のレベルに関わる方法(メソッド)がないといっているのでしょう。
そのような方法は一人ひとり違いますから、一律の方法がないという意味ではその通りです。
それを否定的に感じるのです。
「いろいろな人」が来て、その一人ひとりに違う方法・内容で対応するには個人をよく“観察”していかなくてはわかりません。
私は“自分のできる範囲”でそれを心がけているつもりです。
執筆者T=は観察をほどほどにして個人対応のメソッドを要求しています。
これは混乱した要望です。