Center:はじめにー『引きこもりと暮らす』
はじめに
不登校情報センターは、不登校・引きこもりなど対人関係に問題をもつ人と家族をさまざまな方法で支援するNGO、民間団体です。
そのいろいろな取り組みのなかで、中心になるのは、不登校・引きこもりを体験した人たちが集まってくること自体だろうと思います。
私はこれを、当事者の会(=居場所)と考えています。
同じ体験者といっても、その年齢、社会(学校)経験、男女、関心事、精神的状態、性格・・・はいろいろ違いますから、一つの世間、小型で特別な人間社会をつくっています。
別にカウンセラー、ボランティア役がいます。
ほかの心理相談室などが設ける自助グループと比べると当事者の会の参加者とカウンセラー、ボランティアの関係はかなり異なったものになるのではないかと思います。
ほとんど大部分の当事者は、この場でカウンセリングを受けていないからです。
彼ら、彼女らは、同じ当事者を求めてくるのであって、カウンセラーやボランティアを求めてきているわけではありません。
当事者の会の一グループは、明瞭に「カウンセラー、ボランティア不要」を掲げています。
しかし、当事者が望めばカウンセリングを受けられます。
カウンセリングを受けに来た当事者が、この当事者の会(居場所)に加われるのではなく、当事者の会に集まってきた人が、必要と思うときに、これと思えるカウンセラーに相談しにいくという形をとります。
当事者とカウンセラーの顔見知り度、雑談や食事などのかかわり、それらを含めての信頼関係ができてから、相談しようという気になるのでしょう。
それを生み出す環境条件のある居場所というわけです。
当事者の会メンバーのカウンセリング料は無料です。
無料であるからカウンセリングを受けやすいのではないと思います。
その人に相談してみよう、話してみようという気持ちになれるのが、それよりも優先するのです。
相談者とカウンセラーは、ここではより本質的に人間として対等に近いと思います。
特別な場合には、私のほうから当事者に「○○さんにカウンセリングを受けてみたら?」「相談してみては?」とすすめることがあります。
それは私の方にしばしば相談にやってくる当事者に対してそうすることが多いと思います。
その人の問題を複数の人と共有して考えていこうという面もあります(私だけがそれを知っているだけでは十分でないときなども)。
またカウンセラーの人に、こういう相談ケースを知っておいてもらうのもいいと思う場合もあります。
その結果、私の業務時間をいくぶん確保できる面もあります。
当事者の会にはどんな人が集まるのでしょうか。
家からやっと出られたばかりの引きこもり状態の人から不安を持ちながらも社会参加を始めた人までの幅広い状態の人といえます。
家から出られたが他に行く所がなかった、家族以外の人と話がしたい、同世代の人と話がしたい、異性(または同性)と話がしたい、友人がほしい、一緒に食事をしたり映画を観に行ける人がほしい、コミュニケーションの練習、人が集まっている場に慣れたい、自分と共通の関心をもつ人を探したい、自分さがしの場にしたい、自分の考えていることを聞いてほしい、意見をききたい、同じ体験をもった人の気持ちを聞いてみたい・・・一人ひとり各人各様の気持ち、あるいは潜在的な目標で参加しているように思います。
精神的な状況でみると、比較的元気な人、医療機関で通院や入院をくり返している人もいます。年齢は十代の中ごろから40代までです。
多いのは20代の後半から30代に入ったばかりの人です。昨年1年間に1度でも出入りした人は201人で男性111人、女性90人です。
男11女9の比率になりますが、男性の参加回数が多いので、ある場面を平均的にみると男7女3ぐらいになるはずです。
それぞれの人のテーマのポイントは、対人関係づくりと、社会参加の過程という2つがキーワードになるでしょう。
しかし一人ひとりによって、その意識のしかた、無意識(あるいは潜在的な)参加のねらいは少しずつ違っていて、やや極端な言い方をすれば「一人として自分と同じ人はいないでしょう」。
しかしどこかで似通っている、共通する部分があることもまた確かなことです。
病的状態のある人の参加について
当事者として参加する人には、継続的に薬をのんでいる人、○○障害などの診断名がついている、医療機関で診療を受け、ときには入院もしている、あるいはほかのカウンセリングルーム(心理相談室)に通っている人もいます。
というのは、医療機関や心理相談室であっても、治療者やカウンセラー以外の人との人間関係をもつ場がないことは珍しくありません。
不登校情報センターの当事者の会(居場所)は、何よりも対人関係づくり(その延長としての社会参加)を目標としている場です。
街中にある対人関係に問題を感じる人のための“保健室的役割”をするところです。
このような保健室的役割は、一人の当事者にとって医療機関や心理相談室と並行して必要とされると思うからです。
病的状態をかかえる人もまた、対人関係の問題をもち、その面が改善することで病的状態も改善されることは期待できます。
当事者の会においては、対人関係の改善をめざすことが主で、病的状態を伴うばあいであってもそれは二次的要素と考えています。
医療機関や心理相談室でも、医療従事者やカウンセラー以外の人との人間関係をつくることはあるかもしれません。
デイケアやグループカウンセリングやあるいは待合室です。
それは意味のあることだと思いますが、当事者がさらに別の場として不登校情報センターの当事者の会(居場所)を求めるのであれば、それを受け入れるのに支障はありません。
私の経験では、このような引きこもり経験者が対人関係を改善し、社会参加に向かう 人間関係の練習をする場には、ある程度の精神的に元気のある人が必要です。
元引きこもりの人でも元気のある人、ボランティアであって引きこもりの経験のない人も加わっていることが望ましいのです。
しかし、例えば医療機関でそういう場を設けるのは一般には難しいのかもしれません。
というよりは不登校情報センターのこの当事者の会においてもそう楽なことではありません。とくに、当事者の会に参加する人と同世代でそのような人は少ないのが実情です。
もし当事者としてやってきた病的状態のある人が、ここでは十分ではないと感じたら、それは私にはどうすることもできません。
本人の好み、あるいは雰囲気の評価・判断によって決めてもらえばいいのです。
とりあえず私たちは本人の選択に任せます。
そのうえで少しずつでもより多くの人の要望に応えられる場づくりをめざすことになります。
一般に不登校情報センターの当事者の会の雰囲気は、出入りしている当事者の言葉によれば「元気そう」にみえます。
彼ら、彼女らのなかには「引きこもり」関連のほかのスペースに出入りしていて、その対比のなかで、そう感じるのでしょう。
その理由をこう推測します。ここは医療機関ではない、それが病的状態の人が少ない理由です。
ここの成り立ちは心理相談室から発足したものではない――もともと友人を求めてきた人たちが多くを占めていた。
それが今日の当事者とカウンセラーの前述の関係も生み出しています。
当事者の人たちは、親・家族の了解、勧めによってここに来はじめたのではありません。
そういう人もいますが、自分の判断で参加し始めた人が大多数といっていいでしょう。
なかには、親や家族に内緒で、ここにやってきている人もいます。親・家族とはけんか状態の人もいます。
それらの善し悪しはともかくとして、そういう背景が不登校情報センターの当事者の会が「元気そう」にみえるのだと思います。
引きこもりの子を持つ親がきて、この会の様子をみて「この人たちは引きこもりなのですか?」と聞くことがあります。
また「ここに来るようになれば大丈夫なんですね」ともいいます。
それはこの当事者の会の人たちが「元気そう」に見えることを受けとめた言葉です。
しかし、同時にまた的外れの感想でもあります。
ここにいる人たちは、引きこもりの要素をさまざまな程度にかかえながら、社会参加の門前で立ち止まったり、動揺しているのです。
大丈夫ということは、社会に参加できる、仕事に就ける、学校に行ける程度の願望のある言葉ですが、そうではありません。
引きこもりから当事者の会(居場所)に出てこれるようになった。
そこから大丈夫といえる社会参加への段階は当事者にとってもう一つの大きな挑戦目標なのです。
そのことをまず頭の中で(理屈として)理解してほしいと思います。
この本は、引きこもり経験者が対人関係をつくっていくうえでのさまざまな面を明らかにしたものです。
たぶん一般の人にとっても、対人関係、コミュニケーションを向上させていくのに役立つものがあるに違いありません。
その対人関係づくりを、個人レベルで追跡していくだけでなく、人生模索の会を中心とする当事者の会(居場所)のたどった経過から、グループとしても明らかにしたものです。
その意味では、当事者の会、自助グループ、居場所づくりを試みることでも参考にしていただけると期待しています。