Center:「あゆみ書店」=勘違いの理解(2)
「あゆみ書店」=勘違いの理解②
前回の続きです。
ウィキぺディアへの記載者はT=、私の感想・意見はM=の形にして分けています。
T=〔2-6-2①〕あゆみ雑貨・書店
松田理事長は同NPO会報『ひきコミ69号』において閉店の理由を、
「しかし、事業のベースに乗せる事はできませんでした。
メンバーは基本的には受身のまま参加する状態を超えることはなく、私が何をどう企画するのかを待っているしかないのです」
と記している。
しかし、社会経験が乏しく自信欠乏・無気力傾向のある引きこもり経験者に、いきなり企業の総合職並みの働きを期待するのは無理があろう。
なお、一部の店員からは「店員(引きこもり経験者)が、販売している本を読んでPOP広告に感想を書いて掲示したらどうか」等の提案が出されたが、
主に松田理事長から面倒くさい等の理由で却下された。
皮肉なことに、同NPO会報『ひきコミ』において、「引きこもり経験者による引きこもりについての考察」という息の長い連載が、豊富な引用・参考文献を用いて、
ある引きこもり経験者の手で精力的に行われている(2010年現在)。
M=「社会経験が乏しく自信欠乏・無気力傾向のある引きこもり経験者に、いきなり企業の総合職並みの働きを期待する」
=この部分の根拠はありますか? 執筆者の思い込みによる記述です。
どこかにそんなことを書いたものがあるのでしょうか?
「社会経験が乏しく自信欠乏・無気力傾向のある引きこもり経験者」ではなく、
ともかく書店員に名乗りを挙げた積極面に働きかけていたものです。
上手くいかなかった原因の一端に松田の判断、理解、運営などの不足は関係しますが、
それをあげつらって事典に持ち込むのも子どもっぽいじゃないですか?
M=面倒くさい等の理由=主観的な判断以上ではない言葉です。
これは先の書店開設をどのようにイメージしているのかと同様で、店員の提案を受け入れれば何とかなる程度の理解しかできなかったのでしょう。
その書店の社会的存在の判断に考えが及ばず、身近な即物的な判断に振り回されています。
社会経験の乏しさによるので非難するものではありませんが、その状態から事態を見ている事例になります。
支援者はこのような環境のなかにいます。
松田の力不足は認めるべきでしょうが、当事者の提案を受け止めながら判断し、対処し、学習の機会にするように求められています。
「面倒くさい等」の言葉で事態を説明しようとする安易さが、物の見方をみすぼらしくします。
M=「皮肉なことに…」=文章の意味が続いていない。これ以降の文章では何を表現したいのだろうか?
あゆみ書店なのか『ひきコミ』についてなのか、当事者の参加・参加意志なのか、もっと別のものなのか。
この言葉は不要にするか、改行をして適切な範囲の事情を書くのがいい。