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60年代までの子ども世界の喪失

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60年代までの子ども世界の喪失

高度経済成長期のあと子ども世界は失われた

私の子ども時代(1950-1964年)の記憶は少ないです。
特に小学校以前の記憶となると断片になります。これという友達がいません。
内向的とは少し違うと思っています。
一人遊びが好きで、自分で工夫していたはずです。
小学校に入る1年前にお寺に保育園ができ、2歳下の弟と行くことになりました。
母は初日を除いて一緒に登園はしていません。
そういう時代なのか、場所(田舎)によるのかもしれません。
保育園ではよく自動車の絵を描いてほめられていた記憶がありますが、他の子と一緒に遊んだ記憶は思い出せません。
園内にあるブランコに一人でいた記憶が浮かびます。
小学校は学年50人ほどで1学級でした。子どもが多くて大変だったでしょうが、学級崩壊にはならなかったです。
同級生で近所に住むソウジくんが山で一緒に取ったクリの実を上着の左右のポケットの底を破って詰め込んでいたこと。シイの実の木に登って取ったこと。
2歳年長のトシちゃんらと田んぼの横の水路でドジョーを取ったこと。
小学校の近くの幅2mほどの浅い川を堰き止めたら、突然ウナギが跳び出してきたこと…もあります。
後は一人遊びです。サイコロ野球とか紙相撲などで、同じ家屋内の離れに暮らす従兄がしているのをまねて工夫したものです。
地域は漁業集落であり漁港の反対側の海沿いは長い砂浜が延びています。
上は中学生から下は小学校入学前の子どもたちが集団遊びをしていました。
“カオ”という一種の宝取りゲームは広い砂地を利用したモノで20人ぐらいが二手に分かれて対決する運動量のある集団遊びでした。
いくつかの野球チームも出来ていました。
これらの遊びのリーダーは年長の中学生たちです。たぶんガキ大将集団というのでしょうが、小さい子たちを取り込んでたのしませていました。
子ども時代の私は(常連ではなかったでしょうが)そこに取り込まれた1人でした。
小学校上級生くらいになるとトシちゃんなど学年の違う数人で比較的まとまったグループになりました。
トシちゃんはすぐ隣に住み、母親は教師で私の1・2年生の担任でした。
私の地理好きが本格的になったのもこのころです。地理好きは勉強というより趣味か遊びか、放課後の時間の過ごし方で、一人の世界でした。
私のこのような子ども時代は、当時の子どもとしては珍しい少数派です。
共通する多数は親や大人の目から離れた自然な子ども世界にいました。
それは現在、指導員が背後から見ている自主的な子ども集団とはかなり違ったものです。
もしかしたら最近ではゲームに興じる数人が集まるときがこれに近いのかもしれません。
しかし同じようなものとは言えないでしょう。
これは「高度経済成長期以前」の前近代から続いてきた子ども世界です。“自主的”以上に自主的でした。
しかも女子の様子はまったく別な気がします。
このような子ども集団の中で子どもは成長したわけです。
親の手が及ばなかった(子どもの数が多く、とにかく忙しく働いていた)ことも関係します。
そこのリーダー的役割を経験した中学生など年長者も小さな子どもにはどうすべきかを体験的に学んでいたのです。
振り返ってみるに当時の私は人嫌いではなく、友達の中にいることを求めず、自分は参加もしないが邪魔もしない形です。
マイペース、一人横で何かをしていたのでしょう。
後年になってそれはアスペルガー的な気質の表われであったと知りました。
こうした私の子ども時代には子どもの数が多くて、親を含む大人が関与しない子どもだけの世界、子ども世界があったことは、「高度経済成長以前」の特筆すべき様子だったと思います。
自然な子ども世界にいて、子どもたちは異年齢が集まる子ども時代を過ごしていたのです。
社会における子どもたちのこのような状況は、明治のころ日本にやってきた欧米人が見た状況と大差のないものだと思います
(たとえばイザベラ・バード『日本奥地紀行』Unbeaten Tracks in Japan、1880)。
宮本常一『日本庶民生活誌』(中公新書、1981)で当時の子どもの様子をこう紹介しています。
「日本人が子供をだいじにすることは、明治以来日本にやってきた外国人の紀行文によって反省させられるが、子どもたちは物見高い母親に育てられることによって、また好奇心の強い子供に育っていったのであろう」(11p)。
またE.S.モース教授の『日本その日その日』を引用して言います。
「いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致することがある。
それは日本が子供達の天国だということである。
この国の子供達は親切に取り扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少なく、気持ちのよい経験の、より多くの変化を持っている。
赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人なりの背に乗っている。
刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蝿(うるさ)く愚図愚図(ぐずぐず)いわれることもない」(41p)。
宮本さんのこの本によると、子どものこのような状態は鎌倉時代1219年に描かれた「北野天神縁起」の絵からも推測できるといいます。
大学者(貴族でしょう)菅原是善(これよし)の館の前に止まる牛車の長柄に子どもがぶら下がって逆返りをしている絵がある。
子どものそういう遊びは当時から無礼であるとか、叱られるようなことではなかったと推測できるというのです。
こういう情景はいつごろ消えたのでしょうか? 
私の子どものころにはあった、残っていたと思います。高度経済成長の前の時期です。
しかも農漁村であり、工業化・都市地域と離れていたことも関するかもしれないです。
畑の間のイチジクの木に登って無断でイチジクを食べていたのをとがめられたことはないです。
いや、一度どこかから「こらっ!」という声が聞こえて、仲間数人で丘の畑の間を越えて逃げたことはあります。
狭い田舎のことで、子どもが誰であるかは先刻承知ですが、これが事件になり、問題になるとかとがめられることではありませんでした。
これは子ども世界が親の世界から離れて独自に続いていたことと関係し、子どものことには口を出さない風習があったためです。
社会の決まりごとは子どもたちの中に伝聞として広まり、ときに加工され噂になり、また修正され、いつの間にか子どもの中に定着していったのです。
この子ども世界がなくなるにしたがって、徐々に子どもの奔放な自由も縮小していったと思うのですがどうでしょうか。
子ども世界の喪失とは、一人ひとりの子どもにとっては伸びのびとした子ども時代を経験しづらくなっていると思えるのです。
これは子ども世界を知らない世代には、もしかしたら感覚的に理解しづらいことなのかもしれません。
それでも、子ども世界を成り立たせたある部分はなお生き続けていると思えることはあります。
たとえば子どもだけで登校する、一人電車通学する、街中で買い物をするというのは、諸外国ではあまり考えられないと言われます。
周囲にいるこれというつながりのない大人がそこにいる子どもを見守っているから実現できるのです。
おおもとに子どもを大切にする慣行、大人は子どもには優しいものだという感覚が続いているからではないでしょうか。
子どもの貧困が報じられるようになって全国に広がった子ども食堂の動きはどうでしょう。
東日本大震災後、2020年時点で4960か所、1年間に1000ヵ所増えました。
日本人の子どもには優しいという感覚が信じられるのはこういう動きを見ることができるからです。
2020年に始まるコロナ禍において、子ども食堂の動きは見えにくくなっていますが、事態が終わったとき復活を見るでしょう。
こういう事情があるので、私には信じてもいいと思えることがあります。
乳幼児への虐待やひどいハラスメントという状況が広がっているとしても、親・家族の子育て環境が整えば、復元できる国民性はあるのです。
子どもへの虐待・ハラスメントはとても容認できることではないですが、その根絶は社会の環境改善によるものと思います。
ひとり虐待をした親や当事者の責任を問うだけではすまない問題なのです。
ただこの環境を整えるというのは、大きな社会構造の変化の中で壊したものを取り戻し、つくり直そうというわけですから、言うはやすく、行うはたやすくはない、と考えられます。つくり直す背景事情は巨大です。
子どもの数が急激に減少したことも理由に挙げられます。
それを回復することも並み大抵なことではないからです。
子どもの減少と家族関係の変化はほぼ同時並行に起こっていることであって、原因結果がどちらかに一方的あるわけではないです。
大家族解体⇒家族の子育て能力の減少⇒出産する子どもの減少、そしておそらく家族構成員(特にそのなかでの立場の弱い人)の個人としての確立は同じことのそれぞれの面を表わすと思えるのです。
もちろん個別事情においては原因結果が明確になるものもありますが、ここでいうのは全体的な社会的・歴史的な把握においてです。

私のようなアスペルガー的気質(これは15年ほど前に下した自己診断ですが、その後の診断名変更により自閉症スペクトラムに変更)の子どもが、何かの問題を持ちながらも同級生や他の子どもたちから排除されてこなかった理由の1つは子ども世界のあることに関係します。
子ども世界があり、周囲に多くの子どもがおり、異年齢の子どもに囲まれていた子ども時代を経験してきたことです。
自分なりの生活スタイルで子ども時代を過ごし、それなりに必要なものを身に着け(かなり特別であるとは承知しています)、曲がりなりにも社会に生きる力を得たのです。
なにか一風変わった子ども、いろいろなハンディを持つ子どもは昔からいました。
それが高度経済成長の後のいつの頃からか、親からは何か育てにくい子ども、子どもの中では“変わっている”を超えて、避けられ、排除され、いじめの対象になり、“生きづらさ”を感じるようになったのです。
ひきこもりの多くが子ども時代に経験したことです。
最近では一風変わった子ども、いろいろなハンディを持つ子どもに対して特別性を見ようとする傾向も生まれていると思います。
90年代に入ってそこに発達障害という見識が持ち込まれ、救済の手が広がってきたというべきではないかと思います。
発達障害支援法が施行されたのは2005年でした。
親のおかれた子育て環境を、目につくところ、先鋭化しているところから、公式筋(政府や自治体など)が手を付けようとする試みです。
それは必要なことでさらに推進したいことです。
そうは考えられても地域社会から孤立している家族のおかれた環境を改善するというのは並大抵のことではなく、その解決策は社会全体としてはまだ提示されていません。
しかし、子どもへの虐待のない社会は、子ども数が少ないまま、小規模家族のままでも、社会的な支えができた状態で可能になると考えられます。
それは別の機会に述べましょう。

子ども世界の喪失とは、人為的な政策による以上に大きな社会的な変化から生まれたことによるものです。
人知を超えた動きはそのまま受けとめながら、対応策を考えるのが妥当な気がします。
ひきこもり問題とは意識する・しないはともかく、そこまで踏み込んで考え、先駆的な実例に学びながら、対応策を講じていく内容になるでしょう。
これは工業化を相当に達成した世界の先進国といわれる地域に共通する事情のようです。
そうは言ってもひきこもりという形が顕著なのは日本以外ではあまり見ないようですが、どうでしょうか。
その理由は別に考えられます。
   

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