言葉にできること以上のことを知っているのが人間です
言葉にできること以上のことを知っているのが人間です
〔2014年4月27日〕
上野の美術館で開かれる「バルテュス展」のキャッチフレーズは「言葉にした瞬間に違っている」(?)というものでした。
あることを説明しようとして話すのですが、言葉にするとどうも思い通りのこととは違うという意味ですが、それをこのキャッチフレーズにしたわけです。
ときたまあることです。
捉えている全体をどう言い表すのか。
どこかを中心に説明しようとするけれども、話している自分でも何だか違う、そこではなくてもっと適切な言葉で言い表そうとしてもうまくいかない、そういう体験をしたことはないですか。
言葉にできることとわかっていることは同じではない、わかっているうち言葉にできるのは一部に過ぎないからです。
中村雄二郎『臨床の知とは何か』(岩波新書、1992年)さんが、ある人の説を要約して“暗黙知”を箇条書きにしています。(39ページ)
①、われわれは、自分たちのはっきり言えることよりも多くのことを知りうるし、事実知っている。
②、このような知識は、われわれの個人的な裏づけをもっている。
③、われわれの認識の枠組みの実在性と性格は、焦点的にも捉えられず、われわれの行動のうちにただ副次的にあらわれるだけである。
この3点の意味することは、近代科学の積極的な役割と限界までを考える材料になる、中村さんが単独で言っているのではなく、いくつかの方面からそこに迫るのがこの新書です。
とくに「近代科学の限界」とそれを乗り越える方向を示し、そこに迫るいくつかも問題をまとめた本です。
このうち③のところがわかりにくいのですが、こういうのはどうでしょうか。
お母さんからメールで買い物を頼まれた息子がいます。「ロールキャベツを作りたいので、白菜を買ってきて」。
このメールを見て、何を買って帰ればいいのでしょうか。
息子はお母さんにケータイで確かめようとしました。
お母さんからの答えが振るっています。「お前は、ロールキャベツと白菜の区別もできないのか!」でした。
外から見れば、大変な言葉のやり取りですが、この親子関係はとても信頼感にあふれたものであることも示しているのです。
お母さんにすれば、買ってきて欲しいものはこのメールで十分に伝えているのです。そこは問題にさえなりません。
だから「ロールキャベツと白菜の区別もできないのか!」と次の段階の言葉が返ってくるのです。
息子は多少いじけて「レタスでも買って帰るか」とでも思うでしょうが、間違いなくロールキャベツを買って帰るでしょう。
“白菜”はお母さんの頭にある夕食の献立リストがもれたのです。
こういうことは日常的にはよくあることです。
“おばさん会話”には満ち溢れているといっていいでしょう。ところがこれでは伝わらなくなった。
言語外の雰囲気とかその人の日常の調子を前提に会話は成り立っています。
そのあたりを知らないとわからないことが多くなった。ときにはコミュニケーション障害(コミ障を略されるようです)とヤユされてしまいます。
理知的なやり取りが広まるにつれて(科学の普及はそういう効果も生み出しますが)、感覚的なこと、感情的なことを織り交ぜた表現が少なくなっています。
そういう人には窮屈に感じる世界になっているのですが、さいわいなことにこのお母さんのような人は窮屈さを実感しないで生きていけます。
しかし、一般的には言葉に人間味(これもまた科学としてはあいまいな表現ですが!?)が薄くなり、機械的、機能的なやり取りが多くなりました。
活字はとりわけそうでして、絵文字などを使って取り戻そうとしていますが(使っている本人は意識していないかもしれません)取り戻せるのはせいぜい何割かでしょう。
実例を挙げて、③を説明したつもりですが、どうでしょうか。
親たちと不登校の経験のある学生が集まる場で話したことの補足です。