感覚を糸口とする教育的アプローチ
感覚を糸口とする教育的アプローチ-2004年10月5日
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私はいわゆる心理カウンセラーではありません。
では何なのか――昨日の手紙では「枠は外れますがカウンセリング的対応の延長(または脱線)」であり「人間的、共感や親しさ」及び「同世代との人間関係をつくる可能性を伴っている」と書きました。
しかしより正面からそれを見据えれば、教育的(発達支援的)なアプローチになると思います。
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10代の末から、たぶん高校の2年のころから、私の心の中にはエネルギーが未整理のまま積め込まれていった時期が始まりました。
とくに大阪市立大学の夜間部に入ってから(1964年)は、大きなうねりの中に入ってやみくもに生きた時代でした。
家庭的な極貧状態におしつぶされた高校時代、それは同時に周囲の同級生との間に隔たりを感じ孤立していた時代でした。
大学に入ることとは私にとっては、それ以上に働きながら収入を得て経済的に安定した時代の始まりでした。
給与1か月15500円が初任給でしたが、一緒に大阪に移った母親に1万円は渡していました。
弟が高校2年生になって一緒に大阪に移ってきました。
残りで私は十分に1か月をすごすことができました。
それまではあまりにも節約生活に慣れていて、ほとんど何かに使うお金は必要としなかったのです。
他方では私と同様に経済的に苦労しながら、家庭的な不運を背負った連中がその大学にはいました。
そういう人ばかりといっていいほどでした。
夜間大学は勤労する学生たちの集まる場でした。
高校時代は、人間的なつき合いの乏しい同級生で、進学クラスにおいては、家庭の苦しさが日常の学校生活にまで現れざるを得ないのは私を含めて2、3人。それぞれが孤立していました。
大学時代の友人は、友人に値する人が何人も生まれました。
いま街中で突然出会ったとしたら、まるで昨日別れたばかりの雰囲気の中で、続きの話ができるのではないかと思うくらいです。
彼らとは、温かいけれども、しかし自分の全部を出して相手をしなくてはならない関係でした。
私の限界が否応なくさらされたわけです。
友人においても同じだったと思います。
*Oくん、Kくん、Sくんの例など34行(1行は32字)を省略。
人は小さいころからの生育歴、生育環境で身につけたものをすっかり差し替えることはできないものです。
夜間大学時代の私の経験が、私の20歳前後にあったことはとても幸運でした。
その後、26歳のときに転機を感じました。
ある種の違和感を覚えました。疲れといっていいか、無力感といっていいか。
身体的には健康でしたが感覚的に壁に突き当たったような、前向きというよりは後ろ向きのものです。
「もうそんなに努力を続けて立派にならなくってもいいよ」と誰かが横でささやき続けているような感じでしょうか。
当時の私はそれに従うことは、自分は力を抜いているような、停滞に甘んじているような気もしました。
人前で表現するには少し強がらなくてはならない気がしました。
「居直る」というやや斜に構えた気分で、この時期を迎えたのはこれらのことと関係しています。
いまになって思えば、それほど気にすることではなかった、引け目に感じることはなかったのです。
ありのままの自分を見つめ<自分で自分を受け入れ>、それが自分の生き方であると決心しただけのことです。
私の精神的な転機はこのように意識されたのです。
28歳のとき上京しました。
私のいう教育的・発達支援的な方法の一つの実例はこのようなものです。
これを時代と社会が異なり、集まる人の経験などの条件が大きく違いますから、私の経験した同じ種類のものになるわけではありません。
しぜんと創意性、新たな発想が求められるものです。そこがまたいいわけです。
何しろ人生は1回しかない〔一回性のもの〕なのですから。
そこに、精神医学とか心理学に関する理解がいろいろなレベルのことが重なるでしょう。
私はそれを排除するつもりはないし、むしろその方面を融合させたいとさえ考えています。
Aさんにお願いしたいのはこの面です。
自分がその流れの横にいてサジェッションするのではなく、この流れの中にいて、葛藤しながらそれに向き合う関係です。
整合性とか理論としてのまとまりはなくてもいいとまでは言いませんが、第一に追求することではありません。
実感を重んじ、感性、感覚、直感を考えの糸口にして進みたいものです。