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子ども期に受けた不適切な養育の後遺症

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子ども期に受けた不適切な養育の後遺症

ひきこもり経験者等の集まる居場所の相談活動を紹介します。
相談活動と称しますが、参加したカウンセラーさんの場合を除いて私の行う相談は正式なカウンセリングとはいえません。
自然発生的なものです。
数人で話しているうちの一人が「ちょっといいですか~」と呼びかけてくるような形です。
一人と話している所に別の人が加わり、後から来た人とそのまま話を聞くことになったりします。
体調が悪い人のために用意した部屋の様子を見に行ったときに話を聞く状態になったものもあります。
これらの延長に電話があります。
電話は深夜のことが多く「助けて!」の性格が強くなります。
そのうち何人かはOD(薬の大量服用)で救急車を呼んだこともあります。
こういう非公式の相談活動の全体を正確に表現するのは困難です。
いくつかを抜き出してみます。
(1) 話の内容は私への信頼関係と関係します。
どこまで話していいのかを確認しながら、徐々に内容が深くなっていきます。
毎回同じようなことをくり返しながら、ほんの少しずつ違っていくのです。
(2) 話せる内容は自分で耐えられる範囲のものになります。
話している自分が耐えられない話はしていないでしょう。
聞いた話を私が否定することはないと確証できる範囲で話しているように思います。
(3) 話せる内容は話している場の状態や雰囲気に左右されます。
他の誰かが感じられる場では微妙な問題に入ることはありません。
気持ちがゆっくりした状態で、より深刻な話を1つ加える感じがします。
(4) 話す内容には幼少期のころに向かうことも珍しくありません。
そのぶん記憶が必ずしもはっきりしないことがあり、話しながら思い返していくのです。
ときには矛盾していること、別の機会のときが一緒になり、話しながら混乱することもあります。
記憶の再生、ときには記憶の加工や創造も行われているのでしょう。

私はこれという訓練を受けたカウンセラーではありません。
不規則の相談の場で、自然発生する相談です。
私は居場所の開設者なので、当事者にとってはよりリスクが低い話し相手になるわけです。
同世代の当事者との関係がより大事だと理解しつつも、それはリスクが高いこともありその序走として話し相手に選ばれるのです。
話の内容はいろいろです。
現在の生活状態、家族関係、ひきこもりの生活、不眠、摂食障害、無気力、どうすべきかの模索状況……など、どこまで自覚しているのか、話しながら問題を整理している面もあります。
私はそう思い、そう考えてできるだけ聞くようになりました。
初めからそうしていたとは思わないですが、そうなるしかなかったと思います。
私がちゃんと聞いているのか確認されることもあるので、ときには疑問をなげかけ、話の筋道を確かめ、質問をしてみることもあります。
自分が被害を受けた姿をおおっぴらにみじめにさらすようにはしたくはないと感じられることもあります。
しかし、虐待(やそれに近いこと)を受けた、不当な扱いを受けた、そういう点は理解してほしいのです。
二律背反の要望が同時にあり、「前に向かって後ずさりしている」感じと考えたこともありました。
父や母の“悪業”を述べながら、より深く入るのを言いよどむ―それは家族を非難する自分がどう思われるのか、その意識が働くためのときもあります。
非難しながらもかばっているのです。
そういうなかでチラっと深刻なことも漏れるのです。
おそらく私の相談が雑談の延長であり、思い返しながら話していくので気分がリラックスした状態になることもあったはずです。
子ども返りになるとか依存的なことはよくありました。
私はそれらをふり返って考えます。
ひきこもりの人には虐待かそれに近い経験をしました。
それは親も虐待とは考えなかったし、少し厳しい躾だったかもしれません。
子どもを立派に育てる努力だったのかもしれません。
親が経験した自分の子ども時代のことを、整理しきちんと伝える方法だったかもしれません。
手元に友田明美『子どもの脳を傷つける親たち』(NHK出版新書.2017)があります。
友田さんの子どもの躾において不適切なかかわりをマルトリートメントと呼んでいます。
私が相談活動として聞いてきたものを臨床医学の立場から書いています。
無力な幼児期の子どもはそれに自然な力で対応しました。
耳や目や体感を通して伝わるマルトリートメントを生物として抑制しながら受けとめていたのです。
その記憶を和らげ、記憶の奥に閉じ込めながら対応していた。
身体は脳を変形させて対応していたのです。
「子どもは自らの力でなんとかするしかありません。
その結果、脳そのものに変形、変化が起きてしまうというのは、生物学的に見て非常に理にかなった話です」(105p)
この本を読み進みながら、私には耐えがたい思いがするときがあります。
あの人はこのことを話していたのだ。あのときの話はこういうことを指していたのだと思い出してしまいます。
一人ひとり状態は違うけれども、成長期に得ておきたいものを得られず、今になっては取り返しがつかない状態を苦しくて身もだえしながら訴えていたと思うのです。
それが分かっていてもそこで何かができるわけではありません。
苦悶を受けとめるときでした。
友田さんは「脳は、……20代後半までゆっくりと時間をかけて成長する部分もある」(112p)と言います。
しかし、あのときの彼や彼女はその年齢を超えています。
それでも私は人として成長するものはあると信じて、気長につき合ってきたわけです。
事実30代になって初めて働きだした人もいます。
40代になって「できること」から始動する人もいます。
私はその応援団の末席にいるつもりです。

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