大人になる前におっさんになった
大人になる前におっさんになった
会報『ひきこもり周辺だより』2023年10月号
遊就館という資料館をご存知でしょうか。靖国神社の敷地内に併設された施設で、幕末から太平洋戦争までの日本の戦没者や軍事関係の資料が展示されています。
入り口には零式艦上戦闘機のレプリカが展示されていて、特に航空機好きというわけではない私でもテンションが上がります。まあその後上がったテンションは落ちる一方になるわけですが。
特に太平洋戦争末期に亡くなった特攻隊員の方々の家族に宛てた遺書と写真を見ていると空気が重く感じられてたまらなくなります。
特に印象深いのは20代そこそこの若者が書いたとは思えないほど文章が立派なことです。
何やら私のことを文章が上手いと評価してくれる方もいるようですが、彼らと比べてしまえば月とスッポンです。自惚れることすらおこがましいと思えます。
もちろん検閲されるでしょうから手紙に書けなかったこともあるでしょうし、遺された手紙の中でも特に優れているものが展示されているということはあると思いますが、それを差し引いて考えても感嘆を禁じ得ません。
戦争末期は十分な訓練をするだけの燃料もなく、特攻隊員の練度はなんとか機体を飛ばせる程度のものでしかなかったということですが、それでも若くして飛行機を任されるだけの技術と知識を持ち、しかもこれだけ立派な文章を書けるだけの学があるのですからエリートと言って良いでしょう。
そんな本来なら明日の日本を背負って立つべき将来有望な彼らが、九死に一生を得るような作戦ならまだしも、その死を最初から前提とした作戦に投入されるわけです。
そんな状況ではどんなに情報統制をしたところで誰でも戦争の行く末は察せられたことでしょう。
にもかかわらず最期まで役目を果たすべく戦った彼らが何を考えていたのか、私には到底想像がつきません。
ただひとつ強く思ったのは、彼らを指して「愚かな戦争指導者に踊らされて命を落とした哀れな被害者」と言い切ってしまうことは、彼らを侮辱する行為に他ならないのではないかということでした。
あの場所の重苦しい空気は二度と味わいたくありませんし、その性質上お気軽にどうぞとは言い難いのですが、広島の平和記念資料館と併せて一度は皆に行ってほしい場所ではあります。
とまあ大上段に構えた話から始まりましたが、別に反戦がどうのとか正しい歴史認識がどうとかを語りたいわけではないのです。
要するに昔の人ってすごかったね、ということが言いたかっただけなのです。
そこで御年36歳になる私が自身を振り返ると、大人になる前におっさんになったな、とそう思うわけです。
松村さんはよく「今どきの成人年齢は30歳だと考えたほうが良い」ということを仰っているのですが、その言葉を受けて考えてみてもやはり同じことを思います。
白髪も増えたし、最近抜け毛が気になって病院に行きました。
そうして身体は順調に老いていくわけですが、一方で未だに親のスネをかじり続ける日々です。
いずれは大人になる前に爺さんになったりもするのでしょうか。考えてみると普通にありそう、というよりさほど珍しい話でもなさそうです。
とはいえ流石にいつまでも経済的に自立できていないのは忸怩たる思いがあります。
ただ、ご先祖様に申し訳が立たない……ということは思いません。
昔は昔の辛さがあったと思いますが、現代の社会には現代ならではの苦しさがあります。
昔の人が必ずしもそれに耐えられるとは限りません。
部分的には昔のほうがおおらかで気が楽だったということもあるでしょう。
そんなことを言いながらこの男、未だにまったく働く気がありません。
「寝るのも死ぬのも似たようなものさ」というのはどこかで聞いた台詞ですが、それにならって言わせてもらえば私は働くのも死ぬのも似たようなものだと思っています。
いや、普通の人は働かないと生きていけないから生きるために働くわけですけどね。
でも私は働けばどのみち心は死ぬのです。実際働いてみて死にかけました。心を亡くすと書いて「忙しい」とはよく言ったものです。
だから働く、働かない、どちらを選ぶというのは心が死ぬか、身体が死ぬかの違いでしかないのです。
そしてもちろん私は死にたくありません。どちらを選んでも死が待っているのなら、その選択を極力遅らせたいというのが今の自分の心境なのかなと思います。
もういっそ映画「男はつらいよ」の寅さんよろしく放浪の旅にでも出たいなとも思います。
ちなみに寅さんは「フーテンの寅」とも呼ばれますが、このフーテン(瘋癲)というのは「定職を持たず、ぶらぶらと暮らす人」を意味します。
そしてさらに本を正せば精神疾患のことを指すそうです。
この言葉の意味が変わっていった経緯までは分かりませんが、なかなか興味深いです。
以上、令和の寅さんを目指す男、フーテンの清水でした。