周囲の人に違和感を持つ鋭い感受性
周囲の人に違和感をもつ鋭い感受性
〔2014年7月6日〕
◎「支援者という立場での原稿をお願いしたい」というのが私にも回ってきました。
それで書いたものです。
不登校になる人、ひきこもる人たちのかなりの部分が、周囲の人や社会に違和感を経験します。
これは個人差があることですが、一般の人には具体的な例で示すのがよかろうと思います。
〔表面的なことばの表現だけで、判断する人がいます。
私は一つひとつのことばをよく考え、言った後もその言い方がよかったのどうかをふり返っています。
「元気ですか」ときかれ「元気なんですが…」と答えました。
そうしたら「元気なんだ、よかったね」みたいなことで終わってしまいました。
私のいう「元気なんですが…」とはこの受けとめ方とは少し違うんです。
でもその人にはそれを求めても無理です。
その人は「向こう側の人」なんです〕。
これは不登校情報センターに来る人から聞いたことばを編集した『ひきこもり国語辞典』にある「向こう側の人」の説明です。
反対語は「こちら側の人」になります。
このようなことばにすると、この微妙な感覚も少しはわかってもらえるかもしれません。
もう少し続けましょう。
化粧した自分は素顔の自分とは少し違います。背伸びをした状態は身の丈どおりの自分とは違います。
自分の弱さやハンディキャップを補い・隠すために服装や行動やことばに細心の注意を払います。
これらを極端にいうと自分を“偽装”するのです。
外見をよく見せるためにだれでも普通にしていることです。
化粧、背伸び、偽装…はすべてそのままの自分とは違います。
外見をよくするのは自己防衛が出発点ですが、ときには攻撃的な表現のためにそうする人もいます。
防衛と攻撃は磁石のS極とN極のように反対側にありながらつながっているものです。
その説明はここではやめておきましょう。
防衛として化粧、背伸び、偽装…はしていても、その一方ではそのままの自分を理解する人を求めます。
外見に表われる自分を認められても自分では落ち着きません。
そのままの自分を受け入れ・理解する人は少数でいいのですがほしいのです。
1人だけでもいいこともあります。
1人もいないとこれはかなり大変です。
しかし、「こちら側の人」の多数の人がそのままでいることができません。
なぜならそういう素の姿では周囲の人からおかしな人と排除される、受け入れてもらえないという不安がわいてくるからです。
そのままの自分ではなく、背伸びし偽装している自分を強いられ、その状態が肯定されてきた経験によるのでしょう。
そうでいながら背伸びし偽装している自分を自分の本質ととらえられるのは心外です。
この不安定感をどうにかしようとしてエネルギーをとられます。
人のなかにいる、人と接触する、とくに大勢の人の中にいると疲れるのはこのエネルギーの消耗のためです。
偽装していても「こちら側の人」は偽装の背後にいる素顔の自分を見てくれます。
それだって不安があります。
なかには自分の仮面をはがす、はがされる関係でそうなる人もいるからです。
このあたりは両者の相性というか、信頼関係によります。
もちろん自分の素の状態を好意的に理解してくれる人を求めています。
運動会でいちばん早く走ったら「早く走れてえらいね」と言われた人がいます。
テストで100点取ったから、「えらいね」と言われた人がいます。
こういうほめことばをおかしいと感じませんか?
理解できる「こちら側の人」には、そのことばの裏側にある気持ちの底にあるものを感じ取るのです。
早く走れなければダメなのか、テストで100点取らなければダメなのか、そういう毒がこの誉めことばには入っています。
「向こう側の人」のもつ偽善性を感じ取る能力、それを「こちら側の人」は持っているのです。
こういうのも違和感につながります。
この違和感をキャッチする力は優れているようですが、周囲の人から変えるように求められたことが多いのです。
しかし変えることはできません。
変えようとすれば、自分を壊すしかないのです。
周囲の環境と分離して自分を変えることは至難の業です。
それほどこの能力は身体・気質に密接につながりその一部になっています。
しかし、変えようとして自分を壊した人もいます。要注意です。
よく考えると違和感をキャッチする力、偽善性を感じ取る能力は悪いことではありません。
むしろ優れた能力です。
しかしそれを手放しで優れた能力とおちついてながめていることができません。
このタイプの多くは日常生活で生きづらさを経験するからです。
この能力は悪くはないけれども不便な事態に遭遇しやすいのです。
そういう面を無視して「よかったネ」とは簡単にいえません。
このような周囲の人たちに感じるおかしさから自分を守る、自分を維持する方法のひとつが学校時代の不登校であり、その後に続くひきこもり生活になります。
私がこういう話を聞けるようになるのは、不登校やひきこもりを経験した人が、外の世界に接触をするようになってから相当な時間を経てからのことです。
ほとんどが20代後半以上になっています。
長い時間をへてその当時の自分を相対化できた時期になってようやく自分を語ることができるのです。
しかもその時点で、周囲に違和感を持つ状態がなくなっているわけではありません。
いま現在もその渦中にいます。
おそらくそれは一生のことでしょう。
それは変えようがないのです。
ただ経験と成長によって徐々にコントロールできるようになります。
逆に言えば何らかの経験を重ねないと成長は停滞したままです。
むしろそのよさをどう発揮するのか、その方法をどう獲得するのかが課題になります。
楽観主義の私はあえて言いますと、時代はこのような人が少しずつ住みやすくなる時代に近づいています。
生きづらさをもつ人の問題をこれほど取り上げられた時代はこれまでにありません。
しかし、その時代を開くときは同時にそれを妨げようとするカベも強まります。
この時代の「こちら側の人」はこの抵抗を強く受けざるをえません。
先駆者の持つ受難といえます。
私がひきこもりの人に強い関心を持つのは一人ひとりが、この受難をそれぞれの状態において独特の仕方で経験するからです。
なかにはルールから外れる人もいます。
それでも道は開けてきましたし、広がってきたのです。
楽観主義ではありますが私は一般論として「大丈夫!」とは言えません。
関わっている人たちの状態が見ればそう気安くは言えないからです。
一人ひとりに自分の及ぶ範囲で最善を尽くすのみです。
〔追記:11月19日〕
『不登校、ひとりじゃない』(NPO法人いばしょづくり・編、日本地域社会研究所、2014年10月2日)の収集になりました。