同調型の「普通」でなく本音の意思表示が大事
同調型の「普通」でなく本音の意思表示が大事
アフガニスタンのタリバン政権下では道徳警察が設けられています。
何をするのかの全体はわかりませんが、イスラムの戒律に反する服装をしているのか監視があるようです。
女性が頭部を覆うベール(?)を着けていないために逮捕され、ひどい目に遭うニュースがよく伝わっています。
宗教としてのイスラムはきわめて平和的・人間的というのですが、ある一点だけを制度として実行するととんでもないことになる、そういう意味でタリバン政権は否定的にみられるのでしょう。
ところがこれは遠くの国の話ではなさそうです。日本には道徳警察はいませんが、世間という監視のなかで、「普通」という基準によって拘束をされる人が多くいます。
とくに几帳面さが目立つ若者に多いのではないでしょうか?
先日の親の会(セシオネット親の会)5人が最近の若い世代の人たちを語るなかで感じたことです。
拘束といってもつかまえられるわけではなく、精神的なものです。
外出するときの服装、外出先での立ち振る舞い——どこかで誰かに一度でも何か言われたことがあるかどうかさえ疑わしいですが、とにかく「外れている」ことのないようにする、これが精神的な拘束です。
心理カウンセラーに相談すると「そのままの自分でいる」と勧められますが、わかっていてもそうはできない。
「最低限の」という基準を持ち出して、いろいろなところを「普通」にしていきます。
いったいどこが最低限なのかわからないほど、頭の先から足元までの外装をチェックする——これはある人を見ての私見です。
そうすることで「外れていない状態」にするのです。
さて先月、仮名「いろは」さんから「4世代・約100年の子育て環境の変化」を書いてもらいました。
他の人からも自分の親、親としての自分の子育ての様子を書いてもらいたいと期待していたのですが、届いていません。
ただどうしたわけか外国人のばあいが2人から寄せられました。
1人は中東の産油国に行き、その国の男性と結婚し、今は日本にいるお母さんで、子どもさんは十代後半です。
この国で感じたことは人々が(子どもも含めて)自分の思っていることをはっきりと言うことです。
相手に意見につられて(?)似たように言うことはないといいます。雰囲気により自分の意見を決めないのです。
去年この国で大規模なデモが発生したのですが、ちょっとわかる気がしました。
もう1人は、義理の母(夫の母ですが夫とは血のつながりはない)にあたる人で東南アジアの人です。
「瞬間的に思ったことを率直に表現して、空気を読みすぎることがない。…南国の楽天的、我を張らず、家族を愛しいもの、守るものという感じ」と表わしてくれました。
私はこの2人の話と比較して日本人の特徴が表われていると思いました。中東の人と東南アジアの人が望ましい基準ではありません。
それぞれ特長はあるけれども、日本人のばあいの望ましいとは思えない特徴が出ています。
「世間基準」を自分なりに創作して、それから外れないように自己拘束しているのではないか。
「自分らしく」あるいは「そのままの自分」といってもこの枠内から外れない程度というものでしょう。
自分がそれを内側から監視する道徳警察の役割を担い、ときにそれを周囲の人に向けているのです。
それが暗黙の相互監視をつくっています。それが全部の理由とは言えないでしょうが日本人の秩序社会はそれを構造に含んでいるのではないでしょうか。
このような精神文化が日本人の秩序社会を支えているとすれば崩してしまいたいものです。
私はそんな秩序社会は嫌ですね。気づかない小さな時分から自分が思ったこととは反対の意思表示はしてこなかった気はします。
ただ若いころから服装に無頓着であった点をここで開き直ろうとするわけではありません。
何かに振り回されている多くのひきこもりの中で生活するようになって「そーじゃないんだ」と思いました。
私が周囲の人に表現するように重視してきた1つの理由がこれです。普段の表現は言葉と振る舞いが中心ですが、もっといろいろな場面もあります。
創作展を開き、『ひきこもり国語辞典』ができたのはそういう背景理由があります。
自分が心に感じたことを表現するという意味では上の中東の人や東南アジアのお母さんの例が私には望ましいと思います。
ついでに「4世代・約100年の子育て環境の変化」を参考に、日本人家族におけるみなさんの記憶・記録をお待ちしています。