医療になじんだ子ども時代
医療になじんできた子ども時代
〔2019年5月〕
「医学・医療については次号に素人目として」を書き始めました。どうも書きづらいです。
医療になじみがあるのと医療には素人であることを区別しないと難しいみたいです。
そこで先になじみがある部分だけにしました。それは私の子ども時代の記録です。
私の母は看護師(当時は看護婦といっていた)でした。
小学生のころは看護婦を離れていましたが、中学時代の途中からパート看護婦として近所の個人医院で働きました。
ただ日常の母の看護婦としての仕事ぶりは直接には知りません。
私は子ども時代に何度が怪我をしました。
内科系の病気の記憶はほとんどないですが、怪我はよくしました。
母が看護婦であることと私の怪我が重なるのです。
いちばん初めの思い出は小学校入学前の左の足部(足首の下)の骨折です。
骨折といってもヒビが入った程度だと思います。
お寺の境内から坂道を勢いよく駆け下り、歩いていた人の下駄にぶつかり骨折しました。
このときは父に背負われて2駅離れた医院に行きました。
入院したのですがその日は夜間ずーっと泣いていたようです。かすかに記憶はあります。
それで翌日はかなり遠方の玉造温泉病院に母に連れられて行きました。
その病院でギブスをされて、しかし入院はしないで帰りました。
ギブスで固定したら痛みがなくなったみたいです。書きながらこの記憶がでてきました。
40日後にギブスを外すためにその病院に行きました。
実際はそれまでに治っていて、ギブスをしたまま部屋をはいずり回って畳をボロボロにしたようです。
次の怪我は、小学校の4年生のとき(?)です。頭部に瓦が当たって傷を負いました。
同級の友達と何かをしていたのですが、すぐ横の物置倉庫みたいなのが崩壊しました。
パニックになったようでこの時のことはよく思い出せません。
近くの医院に母に連れられて行きました。内科中心の医師ですが、田舎のことであり医師は他にいません。
母はその医師を助けて何とか傷の縫合をすませました。
いまもその縫合の跡はあります。手際のまずさを感じる縫合手術です。
中学1年の正月明けのころです。
座りコタツを机代わりに何かを書いていたとき、ガラス戸にはめていた大きな1枚ガラスが突然倒れてきました。
ハッとそちらを向いた瞬間にそのガラスが顔にあたり、鼻の下を数センチ切りました。
傷が大きかったぶん傷跡は今も残っていますが縫合の手際はよかったと思います。
その手術で母は医師を手伝いました。
頭の縫合をした医師ではなく、しばらく前に引っ越してきて開業した医師です。
後に母はこの開業医のところでパートで働くようになりました。
私の鼻下の手術が関係しているのかもしれません。
中学生のころは顔の側面にときどき腫物ができました。
大きくなり痛くなってメスでこの腫物を切開してもらいました。これは怪我ではありません。
帯状疱疹になったたこともあります。腫物や帯状疱疹は精神的なストレスに関係するとわかったのは最近のことです。
両方ともこの医師に診てもらいました。
母がいたかどうかを思い出せないのですが、母の勧めであったことは確かでしょう。
私が治療を受けたのとは別に強い記憶もあります。
1つは働き者の母が「疲れた~」といってわりと大きなビタミン注射を自分の腕にするのを何回か見ました。
もう1つは母が指を何かで切ったときです。
自分で形を整えてから「先生に診てもらってくる」と出かけて行ったのです。
落ち着いていて、できることをしてから次に進む。言葉が出ない出来事でした。
こういう子ども時代のことが医療になじんでいる背景です。
私が高校を卒業して働くために大阪に出るとき、母は弟もつれて兄のいる大阪に移り一緒に住みました。
1964年、もう半世紀以上も前のことです。
そこで母は本格的に看護婦として再就職しました。
私は1974年にひとり東京に出たのですが、だいぶん経ってから看護婦の母は推薦を受け紫綬褒章(?)という叙勲を受けました。
看護婦としてなかなかだったことは確かでしょう。
私の大阪時代は大学病院で医療事務として10年働きました。東京に移ってからも小さな診療所で6年働きました。
医療現場ですが、日常的なことなので印象は逆に少ないかもしれません。