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優しさという徒花

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優しさという徒花

車のアクセルとブレーキを踏み間違えたと思しき事故が絶えない昨今。
ではアクセルとブレーキを同時に踏んだらどうなるのか?
自分でそんな操作を実際にやってみたことはないが、その場合ブレーキが勝つようになっているらしい。
加えて最近の国産車にはアクセルとブレーキを同時に踏むとアクセルの信号自体を遮断するシステムが備わっているそうだ。
翻って人間の場合はどうだろうか。
人間も表面上はブレーキが優先されるように出来てはいるが、そんな便利なシステムがあるはずもなく色々と不都合が起きてくるものであるようだ。
私が就職活動を決意してからこの1,2ヶ月のあいだ、髪はボロボロと抜け落ちるわ、特に食生活は変わっていないのに体重がどんどん落ちていくわで心身の不調をひしひしと感じる。
また不思議なことに体脂肪もしっかり落ちているので単に筋肉が衰えただけというわけでもなさそうだ。
昔は90キロを超えていた時期もあったというのに今やすっかり適正体重に収まってしまったことで、私の108あるコンプレックスのひとつがほぼ解消されることになった。
振り返ってみると大学時代もただ普通に過ごしているだけで20キロは痩せたので強いストレス環境に置かれていると勝手に痩せていく体質なのかもしれない。
そしてそれだけ質量は軽くなっているはずなのに身体は鉛のように重くなっていく不思議。
いや、そもそも私にとって働くという行為が異常なのであり、そんな異常なものを目指して動いている以上、身体にどんな異常がおこったとしても不思議ではないのかもしれない。
なぜ私にとって働くという行為が異常なのだろうか。
私には人生における夢も希望もありはしないが、強いて挙げるのであれば可能な限り自分の受けるストレスを少なく抑えて生きていきたいという思いはある。
厄介なことにいつだってストレスは他人が持ってくるのだ。
だからできれば他人とのかかわりは最小限に抑えたい。仮に眼の前に自分以外の人間がすべて消滅するスイッチがあったとしたら、私は迷いなく押すだろう。
星新一の小説にそんな話があったように思う。
あれはたしか「自分以外の人間が消えてしまっても構わない」と考えるような危険思想の人間を消すためのスイッチだったというオチだが、それならそれで構わない。
しかしこれまた厄介なことに、生きていくために必要な金もまた他人が持ってくるのだ。
私自身は切実に他人とかかわりたくないと思っているのに、金を求めて働こうとするとその思いと真正面から衝突することになる。
その激しい衝突が私にブレーキとアクセルを同時に強く踏み込ませることを強いるのだ。
この際だから溜め込んでいるものをこの場で吐き出してしまおうと思う。
私が前職の放課後デイに勤めてすぐ辞めてしまったことがトラウマになっていることはある程度近しい人には話しているが、結局何が一番の傷になっているかまでは今日まで誰にも話していない。
女上司とウマが合わなかったからということは確かに大きなストレス要因であり、私が辞めることを決めた一因ではあったが、それだけで5年も引きずりはしない。
本当に辛かったのは、辞意を伝えた際代表にかけられた言葉だった。
「清水さんを採用するのを決めた一番の理由は優しいところなんだよね。それはその後見ていても間違っていなかった」。
代表がそう感じてくれていることは私も分かっていた。代表は別の仕事を掛け持っているため現場に顔を出すことは滅多になく、実際に働き始めてから次に会ったのは一週間以上経ってからだった。
その時の私は4人の子どもから両手両足に抱きつかれて潰れていた所だった。
そこへ代表がやってきて、私と目があった瞬間にっこりと笑っていたその顔を今でも覚えている。
短期間で子どもに懐かれる人だ、この人なら任せられる、そう思ったことだろう。そう感じてその時の私は嬉しかった。
しかしその信頼を私は裏切ってしまった。それもあまりにも早く。
「謝ってもどうにもならないことではありますが、本当にすみません」、当時私が代表に言ったことではあるが今でも同じ気持ちだ。
彼はとっくに私のことを許しているかもしれないし、あるいは忘れているかもしれない。
だが他人がそうでも私は私を許していないし、忘れはしない。
私の前にいる人が嬉しそうにしていたら私も嬉しいし、逆に悲しそうにしていたら私も悲しい。
だから相手にはなるべく幸福でいてほしいし、そのために私にできることがあるなら努力する。
その姿は他人から言わせれば、「感受性が強い」とか「共感性が高い」とか「優しい」とかいうように映るものらしい。
だがそんな優しさが何になるというのか。そんなものは何の実も結ばない、徒花にすぎないのだ。
優しさというものはまず自分に注がれるべきものであって、他人に対してはそのおまけ程度に分け与えれば良いものだと思う。
自分に自信がなくて価値を感じないから、自分ではなく他人に優しさを注ぐ対象を求めるというのは人間の在り方として歪なのだろう。
だから容易に破綻してしまう。
私が言っていることが理解できないのであれば、都知事選の掲示板を眺めて見ると良い。
誰とは言わないが、自分にだけ優しそうな人がたくさんいるだろう。つまりはそういうことだ。
政治家の資質というのとはまた違った話になってくるのでそれによって特定の候補を批判することはしないが、結局社会でうまくやっていけるのは自分に優しい人なのだ。
だから私の目から見て優しい人だと感じる相手には、まず誰よりも自分に優しくなってほしいと伝えるようにしている。

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