カスタム検索(不登校情報センターの全サイト内から検索)

 
Clip to Evernote  Twitterボタン  AtomFeed  このエントリーをはてなブックマークに追加  


世間一般の基準が唯一の正解と押しつけない

提供: 不登校ウィキ・WikiFutoko | 不登校情報センター
移動: 案内, 検索
Icon-path.jpg メインページ > 不登校情報センター > セシオネット親の会 > 清水大樹 > 世間一般の基準が唯一の正解と押しつけない

世間一般の基準が唯一の正解と押しつけない

会報『ひきこもり周辺だより』2022年7月号  建前と本音
いつも何かとお世話になっている松村さんが諸事情により筆を執る時間が取れないそうなので、代打を務めさせていただきます。
よろしくお願いいたします。
私は普段ひきこもり当事者への訪問と、松村さんが運営している「助走の場・雲」のお手伝いをさせていただいています。
さて、初回なのでここは自己紹介から始めるのが無難かと思いますが、私の経歴などを書き連ねても面白くありませんから、今回は手始めに私がどういう思いでこういった活動をしているのかを書くことで自己紹介に代えさせていただきたいと思います。
まず誤解のないように申し上げておきたいのですが、私は当事者が就学・就労するのか、あるいは今のままの生活を続けるのか、そういったことはどちらでもよいことだと思っています。
興味がないということではなく、その人が自分で考えて選んだ道ならばそれでよいということです。
だから私は自分の考えや、「世間一般ではこうするのが普通だよね」というようなことを押し付けることは絶対にしません。
よほど公序良俗に反するような類の言葉でない限りは、「あなたがそう考えることで納得できるならそれが一番よいですね」と私は考えます。
もちろん世間一般では、「今から改めて通える学校を探しましょう」とか「ハローワークへ行って職業訓練をして仕事に繋げましょう」とかいった考え方が無難なのだろうとは思います。
ですが、その道が本当にその人の幸せにつながるのか、そんなことは誰にもわからないはずです。
わからないのに、さもそれが唯一の正解であるかのように押し付けるのは傲慢なだけでなく、無責任です。
そもそも(たとえ親きょうだいであっても)他人の人生に責任など持てるわけがありません。
人生に責任を持てる人がいるとしたら、それはやはりその人自身ということになるのでしょう。
また、「後悔のない選択をしましょう」と言われても、そんなことは不可能ではないかと思います。
どんな道を選んだとしても結局後悔はすることになります。
その時に「まあ自分の選んだことだから仕方ないな」と受け入れることができるかどうかが本当に大切なことなのではないでしょうか。
自分で選んだ道なら受け入れられるし、受け入れられれば気持ちの整理をつけてそこから先の道を模索することもできるはずです。
そのような考えで私は活動を続けています。
ですから私は冒頭で、「ひきこもり当事者への訪問」という表現をしました。
「自立支援」とか「社会復帰支援」という言葉は使っていないのです。
そういう言葉を使ってしまうと、当事者を半人前とか未熟者とみなしてしまって、ひとりの人間として対等に向き合っていないように思えるので、私としてはしっくりこないのです。
と言っても、表向きは説明のためにそういった言葉を使わざるを得ないこともあります。
また、そういった言葉を掲げている他の個人や団体にケチをつけたいわけではありません。
あくまで私個人のこだわりですね。
いまさらのようですが、私の文章をここまで読んでくださっている当事者の方もおられるのでしょうか。
もしいたとしたら、このように思われるかもしれません。
「『あなたの意思を尊重します』と言うのなら、私のことは放っておいてくれよ」と。
そんなあなたに私は言いたい。「ですよねー!」と。
そうです、その人の考えそのままでよいと言うのなら、わざわざこちらから家にお邪魔する必要などどこにもないのです。
それをあえて行うことにはもちろん理由があります。ここからは私自身のエゴの話です。
「助走の場・雲」の場所で行われる親の会には私もときどき参加させていただいています。
その場で「世の中の流れが変わってきた」というような話になることがあります。
「こうでなければいけない、という社会の規範意識が弱まり、一人ひとりが自分らしく生きられる社会になりつつある」と。
私はその意見には全面的に賛同することができません。
もちろん、そうであったらよいとは思いますが、実際には旧態依然とした「こうあるべき」という考え方の潮流はまだまだ衰えを見せていないように私には感じられます。
最も身近な例が私の母です。私はよく「考えが甘い」「詰めが甘い」と母に言われながら育ちました。
それは私に発破をかけることで奮起してほしいが故にかけられた言葉なのだと頭では理解できますが、子どもの頃の感じ方としては「しょせん自分は考えの甘い人間なんだ」というネガティブな受け取り方しかできませんでした。
そして内心では反発しながらも、ああしなさい、こうしなさいと言われるがままに大学時代までを過ごしました。
母の考えは「常識的」かつ、「私のためを思って言っている」言葉であり、「実際母はそうやって生きてきたから一定の説得力がある」ものでした。
そういったことを考えると、私はそれに反論できず、また反論することが悪いことであるように感じられたものでした。
降りかかる火の粉を払い除けることすら許されず、ただ正しさの炎に身を灼かれるのをじっと耐えることしかできませんでした。
母のような規範意識の強い人間はまだまだ世の中には多くいるようですし、その考え方は他者から強く批難されるようなものでもないと思っています。
それが世の中で多数派だというのなら、その覇権を認めつつ適度に受け流していくしかないのかなとも思っていました。
ところが、そうではない人間、今の世の中に私と同じような息苦しさを覚えている人も一定数いるということが徐々に分かってきました。
その息苦しさの表れ方の一例がひきこもりという現象なのではないかと捉えています。
繰り返しになりますが、今後の人生をどう過ごすのかは本人の自由だと思っています。
ですが、もしも私の希望を言わせてもらえるとしたら、何かしらの形で社会とかかわってほしいのです。
別に社長とか首相にならなくていいですし、就労という形でなくていいのです。
ただ、何かしらの形で人とかかわりあってほしい。
あなたの力を貸してほしいのです。
いまの世の中に息苦しさを覚えている人たちが創っていく未来は、現在よりもきっと生きやすい社会になるはずだから。

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
地域
不登校情報センター
イベント情報
学校・教育団体
相談・支援・公共機関
学校・支援団体の解説
情報・広告の掲載
体験者・当事者
ショップ
タグの索引
仕事ガイド
ページの説明と構造
ツールボックス