不登校の50年史
不登校の50年史
奥地圭子さんに聞く【不登校50年・最終回/公開】連載「不登校50年証言プロジェクト」
奥地圭子さんは本紙の代表理事であり、登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク、フリースクール全国ネットワークの代表理事、東京シューレの理事長、東京シューレ学園の理事長でもある。
これらの肩書きだけからも不登校の歴史との関わりの深さがうかがい知れる。
1978年の息子さんの不登校から40年あまりの不登校との関わりは、日本の不登校の歴史と多く重なる。
たんに長いということではなく、肩書きとなっている団体は、不登校の歴史で重要な役割をはたしてきたが、奥地さんはこれらの呼びかけ人であり続けた。
「日本の不登校史」その特徴は
日本の不登校の歴史で非常に特徴的なことは、親が専門家を盲信せず、目の前の子ども自身から学ぼうとし、その声を発信し続けたことだ。
また、その動きが不登校の流れに大きな役割をはたしてきたことでもある。
奥地さんは息子さんの不登校を通して「そこで発見したのが『わが内なる学校信仰』です」と言う。
親の会では一人ひとりの親が不登校について「そもそもをどう考えるのかが大事」ということで、名前も「登校拒否を考える会」としている。
この姿勢・考え方は各地に広まり、考える会という名前も各地の会で採用され、全国ネットワークにもその名が使われている。
子どもの声を聞き、学校信仰を一人ひとりの親が自分の頭で考え相対化していく場として始まり、全国に広まったのだ。
発足にあたっての会則に「『日本社会を変えたい』と書いてある」のは偶然ではない。
活動の広がり
親の会の活動を通して「楽になった子どもたちが来るようになると、いっしょに遊んだりして非常に表情がいい」ということが起きてくる。
奥地さんは、子どもたちの「僕たち、どこ行けばいいの? 明日から行くところがない」という声に応えて「学校以外の場」をつくり出していく。
現在、全国各地に広がっているフリースクールの草分けのひとつだ。
フリースクールを基盤に奥地さんは子どもたちが声を挙げていくことをサポートしてきた。
子どもによる登校拒否全国アンケートや全国各地での子どものシンポジウムなどである。
ホームエデュケーションを日本に積極的に導入し、その普及に尽力もされてきた。
学校信仰の相対化は、みずから社会を変え・創るということにもつながり、フリースクール全国ネットワークを呼びかけ、結成後はこのつながりも不登校を経験したり、フリースクールで育つ子どもたちの状況を改善していく運動にも発展していく。
フリースクールなどに通うために通学定期券が使えるようになったり、教育機会確保法をつくったりしている。
「学校以外の学び場の人たちも税金を払っているのに、公的な資金が学校外の場には出ないで、自分たちで費用を払って支えている」「二重籍」という状況を変えようというのだ。
不登校と社会の変化
不登校の運動は「教育はお上だけがやるものじゃないという感覚が、少しは広がってきたかな」「ずっと学校復帰が前提だったのが、学校復帰のみを求めないと変わった」という変化ももたらしたという。
不登校と関わり、月日を重ねるなかで、「変化した部分と、変化しなかった部分がある」と言う。
「70~80年代と比べたら、『不登校はあり得るよね』ぐらいには変化している」一方、「学校中心社会で、多くの人は学校に通って社会に出ているわけだから、本当に学校に行かない、行けない子の気持ちがわかるかというと、難しい」という。
節目をふり返るということ
不登校50年証言プロジェクトというからには、そのときどきのその人が体験した不登校や不登校に関わる状況が現れてくる必要がある。
すると、50年という年月のなかでどのようなことがあり、起き、変わったこと変わらなかったことが浮かび上がってくる。
恣意的に特定の事柄を争点化するというようなことではなく、そのときどきに焦点となったことをていねいに残していくことには意味があるように思う。
そこには常にさまざまな思いや考えが交錯している。
西と東の2つのチームではとり上げきれない多くの人がインタビューの候補に挙がった。
奥地圭子さんのインタビューは47回に渡る連載の最終回にふさわしいと言えよう。
この47回をどのように読んだのか、あちこちで多くの会話が交わされればと思うし、そのような声を共有できればと思う。
不登校50年 #47 奥地圭子さん
〔2018年10月11日 不登校新聞(本プロジェクト関東チーム委員・朝倉景樹)〕