ゴミ部屋または部屋を片づけられないこと
ゴミ部屋または部屋を片づけられないこと
ゴミ屋敷について考えたい。私がかかわった中で、いちばんの気憶にあるのはもう十年以上前のこと。
その家にはひきこもる30代の息子と母親と姉の3人が住んでいた。
私を案内して家に入れていたのは父親で、別居生活になっていた。
息子は母と姉を支配下におき、毎日夕食は3人が外食することになっており、訪ねたのはこの外食時で3人が居なくなった時間帯だった。
一軒家であり、ドアを外側に開けると玄関につづく廊下に、20~30㎝の厚さに新聞などが重なっており、その上を歩くことになる。
炊事と食堂が一階にあるがそこのドアを開けることはきわめて困難な力仕事になる具合だった。
夕食が外食になるのはそのためだが、朝昼その他の食事は外から買ってくるようだ。
2階に部屋があるのだが、階段もいろいろ置かれていて、注意深く進むしかなかった。
私が印象に残った第一は、このゴミ屋敷の状態よりも、むしろ、息子の支配——それはおそらく依存が反転した状態と思うものだった。
他のゴミ屋敷というのは、むしろゴミ部屋、ないしは片づけられない状態がつづいている人のことになる。
今回は、この人たちの——ゴミ屋敷に比べれば程度は軽いけれどもその方向の状態の人のことになる。
私がいまこの人たちに感じるのは、ある課題が未解消であることだと思う。未解消であることはそれを整理処分できないわけで、身辺においておく。
それは物について言うわけであるが、気持ちや経験したことなども自分なりに受け入れていなければ、処分できない、すなわち片づけるとか整理することにはならない。
そういうように考えてしまう。
これをまとめていえばこうなる。
部屋や家が片づけられないでゴミ屋敷になるのは、物が処分できないのではなくて、自分の経験したこと受け入れることができないので、その“証拠品”ともいえる物が片づけられないため、といえる。
この対応の方法はこれを逆にすればいいということになるのだが、それを具体的に話すことは今の私にはできない。
ただ、何人かのばあいを紹介できる。それはゴミ屋敷の問題とは少し離れたテーマになる。
長期のひきこもりから動き出した人(その全員とはいえないが)、自分の部屋を片づけることから始まったと思える。
その気分が心の整理をするために自室を片づけ始めたのか、逆に部屋を整理することによって自分の気持ちを整理する——または自分なりに理解し処理するのか——はよくわからない。
どちらがどうかとは判断できないが、それは人によって違うのかもしれない。
自室が片づくと、次は家族(家庭)の共通部分を整理する行動に出ることが多いようだ。
共通部分は乱雑になっていることはないわけだが、廊下とか台所になる。
ある人は台所とは母が担当するところと理解したらしく、台所の整理を「行きすぎた行為」として、母に謝ったという話をきいたことがある。
この自室の片づけ・掃除から外出までは、きわめて短期間のことが多い。
それはすでに心の問題が解消していて、それに伴う行動として自室の片づけや家族の共通部分の掃除になっていると理解するのがいいように思う。
となると、なぜそういう気分転換が生まれたのかは、私の中ではいぜん不明のままにすぎない。
それでも、この後者のばあいからみて、心の問題が解決に向かうことによって、ゴミの整理や片づけが本格的なものになる。
ということはゴミ屋敷、ゴミ部屋を片づけるように促すばあいにも共通すると思う。
ゴミ部屋とは私には高齢化したひきこもりの社会的対応を考える一部になると思うが、まだ両者の結びつきがどのようなものなのか説明できない。
〔2024年春先のメモ〕