インド・中国医学が近代医学を超える芽
インド・中国医学が近代医学を超える芽
(2014年10月6日)
昨日は遅くまで中国医学の新書版を読み返しました。
捉えきれないまま眠りに入ったようです。
台風接近のざわめきのなかで朝早く目がさめました。
そのまどろみの中で思ったことを書きましょう。
7時頃に起きだして最初にしたのはH.ハイネの本を引っ張り出したことです。
まどろんだ中で出てきたのは…。
アマゾン流域を開発するために原住民数人が技術者たちを案内するテレビの場面でした。
道はなく原住民が先導します。
やがて彼らが遅れ始め、技術者たちが先に草地が広がるところに到着して案内先導者を待ちます。
「どうして先導者が後から来るのか?」というのに答えました。
「気持ちと一緒に歩いているのであなたたちの速度とは違うのです」。
連想ゲームのように思い浮かんだのは19世紀のアメリカです。
当時の大統領に宛てたインディオ(いまではネイティブアメリカンといわれます)の首長からの手紙の一節です。
「私たちは大地に感謝して大地とともに生きています。
その大地を切り開いていくという大酋長(大統領)にお願いがあります」という趣旨の言葉があったと思います。
ああそういえばこれはヨーロッパでもあったことではないか、と思いました。
ハイネの本はそれを確認するためです。
いわゆる未開人、そして世界中の古代人は自然に対して畏敬の念を持っていました。
自然に手をつけるけれどもそれは必要最低限であり、自然の支配者にたいして赦しを得るという手続きをとります。
人間のつごうで事を進めると知ってはいますが、そこには自然の支配者への遠慮と赦しの気持ちが働いていた、と思えます。
いつからどうして変わっていったのか。
ハイネが書いていたのはヨーロッパのある時期の事情です
(原題は「ドイツの宗教と哲学の歴史のために」1834年。伊東勉・訳、『ドイツ古典哲学の本質』、岩波文庫、1951年)。
キリスト教がローマ帝国の国教になったのが4世紀の初め。
それから各地に広がっていきます。
その地域にも何らかの宗教や信仰があります。
ヨーロッパにはマーニー教とグノーシス派がありました。
アニミズムやシャーマニズムなどのいわゆる原始宗教もあったはずです。
これら土着の宗教や精神的な指導者(呪術師や占い師など)は、邪教の徒、悪魔の使いなどのレッテルをはられ一掃されていきました。
一神教的なキリスト教が席巻する前にはこういう背景があったのです。
原住民の気持ちは圧殺されたように思えます。
1000年後、宗教改革が始まり、並行して近代科学があけぼのを迎えます。
キリスト教において「神は世界をどのように創造しているのか」。
科学(サイエンス)の始まりにはこのようなキリスト教的な関心が大きな動機づけになったと言われています。
一神教ならではの動機ではないでしょうか。
文明はヨーロッパに限らず、中国やインドなどでも高度に発展しました。
そのなかでヨーロッパに科学が成立したのはこういう特殊事情があります。
多神教的な東洋とはそこが違うのです。
近代科学の影響は身体科学にも広がり、今日の西洋医学の発展につづきます。
中国文化圏やインド文化圏ではこの事情が違いました。
ヨーロッパ中世の1000年の間に独自の医療・医学がその文明の構成部分として成長しました。
たしかにヨーロッパ医学が入ってきたときには圧倒的な打撃を受けます。
日本では西洋医学以外は医師免許が発行されない制度ができ、今日に続いているほどです。
しかし、インドのアーユルヴェーダ医学、中国医学は、(たぶんアラビア医学も)完全消去には至りません。
インドや中国では公認の医学・医療ですし、日本でも医療類似行為や民間医療として命脈を保っています。
未開人や古代人が持っている自然への畏敬や感覚は西洋医学の外では保持されているのでしょう。
西洋医学・医療の影響を受けることは避けられないにしてもです。
アーユルヴェーダ医学について、参考にした本の筆者・高橋和巳さんは近代科学の方法で説明しようとつとめ、それは私が理解するのを助けてくれました。
そして近代科学の限界を超えていくものとして受けとめるのがよいのでは、と感想を書きました。
中国医学の2冊には近代医学で説明する気配は少なく、捉えづらいのはそのためかもしれません。
あらためて高橋先生に感謝したいほどです。
『三千年にの知恵 中国医学のひみつ』では「西洋科学的な分析方法で東洋医学を解析することは、少なくとも現在の科学知識では、まだ不可能です。
自然界の全ての現象を、西洋科学という一面のみで理解しようとするのは無理なのではないか」(197ページ)としています。
『東洋医学』ではこうあります。
「東洋医学には科学になじまない要素があり、また、それゆえにこそ高度の西洋医学の世界のなかに命脈をたもっていることができるともいえる」(48ページ)。
意外とこのあたりに近代科学を超えていく芽があるのかもしれません。