なぜ不登校は悪いことではないか
なぜ不登校は悪いことではないか
〔会報『ひきこもり居場所だより』2019年4月1日〕
以前、私のところに相談に来た人たちに不登校を受け入れる高校の案内パンフを送ったことがあります。
ある日その一人のお母さんCさんから電話を受け取りました。
Cさん:お世話になりました。子どもはA高校に元気に通学するようになりました…。
私:それはよかったですね…。
Cさん:それでもう高校は大丈夫だと思います。
私:そうなるといいですね…。
Cさん:はい…。
このあたりで、私はCさんが何を伝えるために電話をしてきたのかはわかります。察することができます。
Cさんもここまで言えば私は察してくれると思っているでしょう。
察してもらえば、コミュニケーションは成立していると理解しているかもしれません。
Cさんは日常的に無意識にこのようなコミュニケーションをしているのです。
これが日本人多数のコミュニケーション、意思疎通のしかただと思います。
大きな意味での日本人の文化です。
この場面でCさんを批難がましく思うことはありません。
Cさんは大事な部分をまだ言葉で表現していません。
伝えたいことは、もう高校の案内パンフは要らない、送らないでほしいのですが、それは言っていません。
断わる言葉はないのです。
多くの日本人は断わるのが苦手です。
相手の意思を察する意思疎通のしかたは、断わる言葉を心理的抵抗に感じるものにしました。
Cさんのなかではすでに意志は伝えた。
だから確認の言葉を私のほうからしてほしい、そう感じました。
私が「それではこれから案内パンフや連絡はしなくていいですね」とか「Cさんをリストから外しておきます」という趣旨の言葉を期待されています。
自分で断わるのではなく、相手から言ってもらってそれに“イエス”とするのです。
日常的にはそういう言葉もなく伝えられたことになっているのでしょう。
けれども私はこのような場面では意図的に私からは確認する言葉をしないようにします。
できるだけ待ってCさんから「それでもう案内パンフは要らないんです」「また何かあったらお願いしますので、連絡はしないでください」と言ってもらえるようにします。
必ずしもうまくいくわけではありませんが、私なりの試みです。
自分ではっきりと“ノー”と言わない、断わらないでも断わったことになるコミュニケーションの方法をいくぶんは変えようとする試みです。
多数者でない日本人がいます。“察する”では意思表示が不完全と思う人たちです。
いろいろなタイプの少数者になります。そういう人にも事態をわかりやすくしたいのです。
察することが苦手なタイプの人たちがいます。こういう人が徐々に増えているのではないかと感じています。
典型的なのがアスペルガー型の察せられない人たち。KY(空気が読めない)もそうだろうし、この2つは重なるかもしれません。
今回はこのタイプは指摘するだけに止めておきます。
別のタイプの人は、確認を怖れるタイプとでも言っていいでしょう。感覚が繊細な人たちといえるかもしれません。
子ども時代に思わず本当のことを言ってしまってえらい目に遭ったことがある―そういう経験談を聞いたことがあります。
感覚が鋭くて本質的なことがわかり、それを口にしたら…ということです。
そういう人たちが言葉にするのは「感情を出してはいけない」「感情は押さえておかなくてはいけない」という反省なのですが、そこにこそ問題を感じるのです。
感情抑制していくと、相手の意思を理解する方法が“察する”形になります。
日本人の“察する”型コミュニケーションは、感情を抑制して表現することと軌を一にしています。
感情抑制と“察する”の2つの関係は相互的相対的なものでしょう。
しかし日本人の感情抑制型はかなり重いものがあり、日本人のコミュニケーションを察するに傾いた独特のものにしています。
この感情抑制は、時と場合(TPO)によっては決壊します。
家族内において抑制を強いられていた側が、器物破損や暴力的な抵抗をすることもあります。
子どもの抵抗が親に向けられて表れるのはこういうタイプが多いのです。これが決壊です。
しかし、子どもの抵抗はまた別の形でも表れます。私が凹型の抵抗と考えることです。
無言になる、親の姿を視界から外す(親の視界から自分を消す)、自室にひきこもる…などがそうです。
実はCさんの子どもはこのタイプでした(と判断しています)。
小さなころは素直に言うことを聞くいい子でした。
中学になるころから親と話すことが少なくなり(思春期には多くの子どもがそうなる)、親を避けるようになった。
自室にひきこもって食事以外には出てこない、数日間の家出をしたこともあります。
ときどき学校に行っていないと判明しています(学校からの連絡による)。
私がCさんの相談を受けたのは学校に行っていないあたりでしたが、すでに家出を繰り返していた時期でもあったようです。
Cさんの子どもには1度あったことがあります。
高校生になっていましたが、ほとんど学校には行っていません。
会ったのは自宅を訪問したときで、食事をする居間のようなところで顔を合わせました。
Cさん(お母さん)が席を外した短い時間に「細かくてうるさくて、自分のことは言うけれども、こっちの話なんか全然聞いていないので、話す意味なんてないんですよ」という主旨をパパパっと口にしました。
Cさん(お母さん)が席の戻ると口数は少なくなり、適当に話を合わせていたみたいです。
お母さんはそんなやりとりがあったとは知りません。
子どもは普通に見えたでしょうが、母の前では大事なことは話したくない状態なのです。
Cさんは面目を保ったかもしれませんが、子どもが一枚上手です。
しかし子どもさんの状態がすぐに大きく変わりませんでした。
Cさんはその後もときどき相談に来られました。
私はCさんの話を聞きながら、その背後にいる子どもがそれに対して何か言っているのか、どんな反応を示しているかを聞き返していました。
なんだか私も子どもさんと同じ立場で、Cさんの話ではなくその背後の事態を思い浮かべていたように感じます。
子どもがA高校に通い始めたのは、それから類推するに親との距離を上手く取り始めたことに関係すると思っています。
子どもが成長することとは自立する過程のことです。その切り換わる重要な時期の多くは思春期です。
小学校高学年から中学生にかけての時期。
不登校はこの時期に多く始まります。正常な範囲の成長過程にいるから不登校になるともいえます。
このときに親子の関係、とくに親子の距離感はかなり重要です。
子どもの気質によっては(感覚が鋭い子どもが典型的ですが)、親から相対的に離れるには親の意見や行動への「ノー」の意思表示が必要です。
思春期が反抗期に重なるのは当然と言えば当然なのです。
必要な「ノー」を強い意志で表すタイプは不登校にはなりにくいものです。
しかしそういうタイプの子どもばかりではありません。「ノー」を消極的に示す子どももいます。
不登校という形もその消極的に示された1つの形であり、悪くはありません。むしろ積極的な要素が潜んでいるのです。
Cさんと子どもの例はもう時効になったと思うので紹介しました。
似たようなことはときどきありますし、あちこちで繰り返されているはずです。参考になればいいと思います。
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