「自分も参加できそう」と当事者が思える方法を巡らせる
「自分も参加できそう」と当事者が思える方法を巡らせる
9日の「大人のひきこもりを考える教室」(親の会)で考えたことです。
当事者が「受け身の形で積極性を示せるもの」の具体的な姿を見つけ出すことが必要です。
言い換えると、そのいう場を当事者が自分から率先してつくり責任を負うことはありません。
自分にも参加できるそうな場であれば、数人のうちの一人として参加したい。
そういう場を(誰かが)つくってください。こうなるでしょう。
ある種の積極性はありますが、基本のスタンスは受け身です。
自分が参加できる形づくりを抽象的に提案しています。
これをどう性格づけるのか迷います。
同行と似ているところもありますが、かなり違います。
当事者の側からの表現にしたいのです。付き添いや伴走は支援する側の言葉です。
受け身は状態を示しますが関与する面が表現されていません。
便乗は当事者の関与する面がまだ少なく“ついでに”感があります。
誘導・誘動にかなリ近いですが、それほどのリーダーシップはないでしょう。
「何とかしてください」という相手を当てにする依頼的な雰囲気が十分ではないです。
不登校情報センターの居場所の歴史を考えると、そうだったのかと納得することがあります。
2002年ごろ、主に「30歳前後の人の会」という当事者の自主グループがあり、月2回程度の話し合いをしていました。
そのうちに「不登校情報センターに来ている人たちと一緒なら働けるかもしれない」と言う人が表われました。
私と数人で雑談をしているとき、「不登校情報センターを働ける場にしてください」という発言はこのベースから出てきました。
*この事情は2002年から2003年ごろにいろいろなところで書きました。「五十田猛の論文とエッセイ」を見てください。
この時のひきこもり経験者の気持ち、提案の内容が「受け身の形で積極性を示せるもの」だったのです。改めて本当に的確であったと感じます。
そこには受け身と積極性の間の狭いストライクゾーンがあります。
受け身の形で積極性を示したものが「不登校情報センターを働ける場にしてください」という提案です。
参加者の一人として提案者はいますが、自分は場づくりを背負いません。
それから10年余りの歩みを見ると、成功をしているとはいいがたいです。
したがってこの絶妙の提案も成功とはいいがたいのです。
同時にまだ失敗という結論は保留すべきでしょう。
確かなことは不登校情報センターの居場所が、居場所作業を伴って継続できた理由はこの提案の成果だと思えるからです。
長期のひきこもり当事者の状態を考えると、一人ひとりにあった「受け身の形で積極性を示せる」具体的な方法を見つけ出さなくてはなりません。
「これならできますか」と支援者側が確認するものではなく、「こんな方法なら自分も参加できそうです」と当事者から言い出せるものです。
これらをあれこれの話を巡らせるうちに当事者から出てくるようにしたいところです。