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高度経済成長が一農漁村地域に与えた影響

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高度経済成長が一農漁村地域に与えた影響

私が子ども時代をすごした島根県五十猛村は、1956年に大田市に合併されました。
さらに2005年の平成の市町村合併を経て今日に続きます。
私の2歳年下の弟から小中学校の同級生・長尾英明さんの『なつかしの国石見のいにしえ物語』(2022年10月)が送られてきました。
長尾さんは「五十猛まちづくりセンター」に在職されていました。
「石見も社会の変節が激しく昔からの風習や伝統がどんどん消えつつあります。
とりわけ、戦後の高度経済成長期以降の社会の変化は激烈なものがあり、昔の姿はすっかり失われ忘れ去られる運命にあります。
…いにしえの姿を今記録して残さないと、その姿がわからなくなり継承が難しいのではないかという危機意識がありました」と序文でその発行の意図を書いています。
山陰海岸地域にある五十猛が主に戦後どのように変わってきたのか、私の問題意識に沿って、いくつかの点を紹介します。
高度経済成長の直撃を受けた農山村・漁村地域の状況を示しています。
人口動向と生徒数は関連しています。
1950年2905人、1958年3036人(最大数?)、1965年2705人、1975年2080人、1980年2016人、1990年1932人、2010年1395人、2022年1217人(最近)。
「人口はどうしてこんなに減少したのでしょうか。
それには域外就職、少子化などいろいろな理由があると思われますが、最大の理由は昭和30年代後半から始まった高度経済成長にともなう産業構造の変化です。
農業、水産業など第一次産業に依存していた当地も経済構造の変化にともなう若年層を中心とした都市部への就労が引きがねになりました。
また、五十猛町特有の事情として、農林業・水産業の衰退、それに石膏・黒鉱などの鉱山の閉山がありました」(P109)。
中学校の生徒数は、1961年度の在籍数245名(住民の8%前後)、内訳は1年生79人、2年生79人、3年生88人です。
3年生は戦後1946年4月以降の生まれで、この年がベビーブームの始まりです。
その前の1945年生まれは極端に少なく、私もその1人でしたが同級生は52~53名と記憶しています。
1962年3月の中学校卒業生88人は、高校・専門学校進学46名(52%)=高校進学率は50%ほど。
「就職は男子は左官職になるため県外、女子は紡績工場や理容などサービス業」とされ、地元に残るのは1~2名といいます。
前年1961年3月に卒業した私の同級生もほぼ同じだろうと思いますが、地元に漁師として残る男子は5名ぐらいいたはずです。
高校卒業後の生徒の進路も同じ傾向と推測できますが、当時は農家を継ぐ人もまだいたはずです。
これらは最大過疎進行県、島根県の一隅に表われたものです。

農業に関して耕地面積や従業員数などは書かれていませんが、1960年代後半以降、空地や農地の荒廃を示す記述があります。
空家=「空家増加の要因はいろいろあると思います。最も大きな要因は少子化に加えて、世帯の核家族化にあります。
その結果、若い世代が親と同居しない、生まれ育った家に住まないことがあります。
その背景には、親の住居の構造が若い世代の新しい生活スタイルに合いにくいというほかに、嫁が同居を好まないことが背景にあるようです。
いわば嫁が姑の目を気にせずに気ままに暮らせることを優先するという若い世代の心情の反映ですが、やがてその若い世代も将来には同じ境遇になることに気付いていないだけです」(P160-161)。
農地と山林=「居住戸数の激減に加えて農地の荒廃が進み、田畑が山に還っています。江戸時代に食糧の増産に備えて、磯竹村(五十猛の旧表記)でも山地の開墾が進められました。
重機のない時代でしたので、手作業による大変な作業だったと思います。その結果、新たに溜め池が掘られ、新田と呼ばれる地名が多く生まれました。
…今ではその田畑を耕作する人がいなくなりました。開墾された田畑は荒れ果てて元の山に還っています。先祖がその姿をみれば、さぞや悲しむに違いありません。
では、日本の食料がそれで足りているのかといえば、そうではありません。エネルギーベースで60%は輸入に頼っているのが現状です。
そして、五十猛にある山々はその昔、将来の建築用材にするため植林され、枝打ちが行き届くなど整備されていました。
また薪や焚き付けなどの燃料確保のために人々が山に立ち入って下草が刈られていました。
ところが今では、山に燃料を求めることがなくなったので、山に入ることはなくなりました。山は荒れ放題となりました。
その結果、山の木々には葛󠄀がからまり、イノシシ、猿などの天下になりました」(P161)。
3つの散村型地区の現在の戸数62、将来戸数15を挙げています。
これは「仮に20~30年後を想定し…今生存している人が80歳で亡くなり、現在居住している40代以下の若い後継者だけが残る(現在他地域に住んでいる人は帰らない)と仮定」(P160)した厳しく評価したときの数値です。
2つの集村型地区(大浦、湊)に関する数値はありませんが「状況はそう変わらないと思います」(P160)。
漁業=これも漁獲量や従業員数は書かれていません。
港は江戸時代の石見銀山の開発とともに銀の積み出し港として整備されました(1603年に大浦経由で江戸に送った記録がある)。
江戸中期には日本海側の北前船航行の一拠点となり、「北陸地方を中心とする全国の廻船が入港し活発な交易活動が行われていました」(P30)。
1817年には港町大浦に8軒の蔵宿が存在していたといいます。 その後、漁港として盛況になりましたが、時期や経過の詳しい説明はありません。漁業の様子です。
「大浦港は基本的には漁港です。一本釣りが盛んでした。最盛期には100隻に及ぶ一本釣り船を湾内で見かけるほどでした。
そのなかで、大浦港で有名な水揚げ品は何と言ってもワニ漁でした。ワニとは鮫(さめ)のことです。
この魚は古代の神話にも出てきますが、大浦には嘗てワニ漁師が多くいました。…ワニの鰭(ひれ)は高級な中華料理に使われました。
またワニの肉はアンモニアを発酵することから腐食に強く、冷凍技術のない時代には遠く三次方面に運ばれ、貴重な生料理として重宝されました。
地元ではワニのハラワタ(=内臓)をよく食べました。酢味噌に落として食べるハラワタ料理は絶品でした。
昭和30年代には巾着網漁が盛んになって、九州方面から多くの若い漁師が大浦に来て寄宿していました。
現在、巾着網漁で地元業者一社が健在であり、また底曳き網も地元二社が頑張っています。
また水揚げされた鮮魚の仲買・販売だけでなく、魚類の加工産業も盛んでした。
大浦には鮮魚加工、干ぼし加工などの業者が多く存在し地元の雇用の貴重な受け皿となっていました。
しかし、水産資源の枯渇や人びとの食生活パターンが変わったことなどから水産業は徐々に嘗ての勢いを失いました。
大浦の漁業者数も大きく減少したばかりでなく、嘗て活気があった競り市場も和江に移転し大浦から競り市もなくなりました」(P31)。
鉱業と鉄道利用
1955年に石膏の採掘が始まります。このため私の小中学校時代にその従業員家族が生徒として増えました。
島根県は人口過疎が始まったのですが、一時的・局在的にミニ人口集積地区になったのです。
鉱業採掘権は複数の企業を移りましたが、1974年で石見鉱山(株)の職員・作業員総数は135人です。
家族が移住して鉱山町が形成され、約200人以上いたといわれます(P63)。
山陰本線の五十猛駅は1917年開通しました。
乗客用と貨物(石膏輸送)に使われました。
1965年のデータでは、年間定期乗車人員103472人、定期外乗車人員75184人の合計178656人、1月平均489人です。
「1955年頃(?)は、米子鉄道管理局管内で12位の営業成績をあげていた」(P103)と紹介されています。
1967年の駅員数は12人ですが、1965年に国道9号線が開通して以降、乗客・貨物とも減少に転じます。
1975年に貨物取扱の廃止、1985年の無人駅化とつながります。これもまた高度経済成長を経た日本社会の変化を物語ります。
道路網の整備(車両輸送の増大)と鉄道ネットワークの過疎地域への影響の一面を示します。

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