中学生の社会体験
中学生の社会体験
「ひとへのねばり」~中学生支援のコア
■いまのリアルを追求すると、「目の前のリアルな人」が消えていく
昨日、大阪市福祉局が委託する「子ども自立アシスト事業」の一環で「中学生ライフプランニング2」というフォーラムがあり、僕も参加した。
高校生に関しては、当欄でも度々言及する「高校内居場所カフェ」事業があるが、中学生に特化したものは比較的少ないと思う。
後半のディスカッションで出てきたテーマは主にふたつあった。
1つは、「現代社会がどんどん新しくなっていくなか、中学教育に就労体験を超えたよりリアルな社会学習を導入できないか」という問いだった。
1.つは、「カネ」の問題、つまりは主として保護者が抱える経済的問題とそれの中学生への影響、だった。
1つ目は、この頃は各自治体で見られる就労体験(有名なところでは兵庫県の「トライやるウィーク」)をバージョンアップしたものの模索で、現在の就労体験はすべてを教師たちがお膳立てしたものであるが、この準備自体を中学生にしてもらうというもの。
そのほかにも、役所におけるさまざまな手続き(社会保険や税等)を実際に行ない、この社会の仕組みを早くから理解するという提案も出た。
ちなみに現在、若者たちは就職してからそうした社会保険や税の仕組みを知る。
だがはじめから非正規雇用の場合、40才をすぎてもそれらを知らず、親が代行することも珍しくないだろう。
日本にひきこもりは110万人いることがようやく判明しているが、それらの大半は、非正規雇用すら体験しないまま歳をとっているため、
こうした社会の根源的仕組みを知らないまま歳を重ねていっている。
それ以上に「社会のリアル」を体験するにはどのようなかたちがあるだろうという僕の問いに出てきたものは、ネットを介した出会いやネットを利用したシステムの構築等々の話題が出た。
おもしろいことに、「リアルな社会」を追求していくとその果てにはリアルとは反対の「ネット」が登場してくるのが現代社会らしい。
いまのリアルを追求すると、「目の前のリアルな人」が消えていく、という不思議な事態になっている。
2つ目は、中学を卒業し高校に入る際にさまざまな名目で必要になる諸費用が払えない家庭が着実に増えており、
10代半ばで金銭的につまづいてしまう層の子どもの存在が報告された。
これはもちろん親、保護者の問題である(「子どもの貧困」が一次的であるという問題は存在しない)。
DVや虐待の連鎖等を背後に抱える保護者たちが、いかに金銭的に苦闘しているか、その影響をモロに受ける子どもたちが、
それでも自分の親をある意味支える(家事や心理的サポート)健気な姿も報告された。
リアルな社会を知らないまま子どもは大人になること、一方では、リアルな大人の問題に振り回される数多くの子どもが存在すること、
この二大問題がシンポジウムではいきなり提示された。
■富国強兵型国民国家システムの緩慢な変容
当欄では度々触れているが、日本の小中の不登校数はここ15年ほど13万人が続く(最新調査では14万人台になった)。
また子どもの数自体は、ここ20年で一学年で20万人以上が減少している。
つまりは、不登校自体は差し引き増えている。
一方で、不登校「支援」は、各現場では成功していると思う。
僕も経験上、翌年度からの再登校や、高校進学をきっかけに登校できるようになる「高校デビュー」をたくさん支援してきた。
これは、複数の大人(親と教師や支援者)がチームを組んで計画的に取り組めばだいたいはなんとかなることを示しており、
また「10代の潜在的な力」の強さを示すもことでもある。
たぶん、日本中で不登校支援は成功している。が、不登校の数そのものは増えている。
これは各現場の取り組みではどうしようもないところに日本の教育と社会が追い込まれているということだ。
つまりは日本の教育システムそのものが、「制度疲労」しているということである。
支持不支持は別にして、東京大学教授であり先の参院選で例の「れいわ」から出馬したあのやすとみ歩氏は、
上の事態についてこのように記述する(内側から見た「れいわ新選組」)。
私は、現代という時代を、明治維新によって成立した日本の「国民国家」システムの緩慢な解体期として理解している。
このシステムは、イギリスで生まれた資本制生産システムと、フランスで生まれた国民軍が中心となっており、
その両者を統合しつつ機能させるために、学校教育、市民的自由、議会制民主主義などが成立した、と考えている。
この国民国家の政治的指導原理はそれゆえ、「富国強兵」ということになる。
この原理は「経済成長」というように言い換えられて今も生きており、安倍政権は「富国強兵」を露骨に再生しようとしている。
しかしこのシステムは色々な意味で機能しなくなっており、現代の諸問題、たとえば累積する国債、中央銀行の膨張、
年金・医療制度の破綻、学校の機能不全、政治不信と投票率の低下、経済の不振、少子化などなど、というものは、
この国民国家システムそのものの衰退の表現として統一的に理解せねばならない。
出典:内側から見た「れいわ新選組」
この考えには僕も賛成で、現代はここ150年ほど続いてきた「富国強兵型国民国家システム」がゆっくりと変わっていってる時代だと思う。
それがやすとみ氏の言うような「子どもを守る」時代にパラダイムシフトしていくかはわからない。
けれども、「不登校の高止まり現象」が続く日本社会は、氏が指摘するような「国民国家システムそのものの衰退の表現」と解釈しても問題はないだろう。
■矛盾し混乱しそれでも純粋な前期思春期を支えるには
フォーラムの最終盤で僕は、いまの中学生支援を象徴するようなキャッチフレーズはないだろうかと問題提起してみた。
昨年、大阪市平野区でのフォーラムでの「つながることをつづける」というキャッチフレーズ(ローカリティとは「つながることをつづけること」)、大阪府の高校内居場所カフェでの「高校生サバイバー5」フォーラムで出た「出会うことをつづける」というキャッチフレーズ(であうことをつづけること~「高校生サバイバー」)につながるようなものとして、後々人々の記憶に残る言葉を探したかった。
各登壇者はそれぞれがアイデアを出した。
それらのアイデアは、「つながる」的流行りのワードではなかった。そこで出てきた言葉は、
ねばり
はりつく
しつこさ
等のどろくさいものだった。
そこに、前半で出てきた議論「リアルを追求すると『ひと』が消えていく」が重なった。
その結果、今回のフォーラムで出たキャッチフレーズは以下のようなものになった。
「ひとへのねばり」
泥臭すぎる。だが矛盾し混乱しそれでも純粋な前期思春期を支えるには、この「ひと」と「ねばり」という二大タームなしには無理だ。
僕は妙に納得してフォーラムを締めた。
〔2019年7/27(土) 田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表〕