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Center:2009年2月―「慣れる」から入って「実現する」をめざす

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「慣れる」から入って「実現する」をめざす

(1)慣れること
引きこもり(経験のある人)に対して、場に慣れる、人に慣れる、合わせて「人のいる場に慣れる」ように勧めています。
それを慣れると表わすのですが、慣れることには成長がある、少なくとも慣れる過程では成長を伴うと考えます。
なかなかその人のいる場には入れない、近づけなかった。
そこを思いきって入った。
落ち着かない、場違い感がある、周囲からは変な人と見られている気がする、いたたまれない、逃れたい…。
程度の差はありますが、はじめのうちはこのような感覚になる人は少なくありません。
私は気がつけばたぶん「何もしなくていいから、ここに座っていてください」のようなことをいいます。
この場には入れない、避けたいところで諦らめて去ると、ちょっと楽になった気になります。
でもそれは自分にとってはよくないとどこかで感じています。
本能的な直感でしょう。
その楽を重ねるといつか取り返しのつかない状態になる。
だから人のいる場に近づいてきたはずだったと思い返します。
葛藤になります。
自分のこれまでの生活のなかでは繰り返してきたおなじみの事態です。
ついに思いきって人のいる場に行ってみた、入ってみた。
やっぱり落ち着かない、だれかに迷惑をかけている感覚におそわれる、「出よう!」と思いつつ動かない、いや動けないのかもしれない。
そこにいるだけでストレスを感じ、忍耐を求められる。
「助けて!」と叫びたいのに、適当なことばがない、声が出せない。
「サポートする人はいないのか!」と怒りが湧いてくる。
それらしき人がいると「なぜ気がつかないんだ!」の思いが募る。
それどころではない。
前に座っている人から「どこから来ましたか」と声をかけられた。
緊張が高まった。
どうしよう。「○△」と自分の名前を答えてしまった。
あわてて「▽◇」と住所を答えた。
問われたことにはうまく答えられないものだと思いつつ少し落ち着いた。
「そうか聞かれたことに答えていけばいいのか」と感じる。
このような人のいる場の体験をスタートさせた人はずいぶんいるように思います。
それでいいのです。
やがて答えにくいことには「わかりません」「まだ言えないです」と言えばいいことを知ります。
「ちょっと…」とことばをにごすだけの人もいます。
しどろもどろのときもあるかもしれません。
そのうちに慣れるのです。
これが人のいる場(フリースペース)初心者の体験です。
たしかに修行といっていいでしょう。
そこにいるだけ、人のいる場に入るだけで「すごいこと」になるのです。
そこにいるとストレスを受け、それに耐える粘りが自分を成長させます。
修行の結果は成長を得るのです。
人のいる場に慣れるのは、元々もっている自分の力の応用にみえますが、自分の力自体を成長させ強めているのです。
*「人のいる場」に入り、腹痛や吐き気など身体症状がでたときは、ストレスに耐えられない(無理をしている)という反応なので、その日は退去した方がいいでしょう。

(2)フリースペース(その1)
私は引きこもりのこのような状態をどこかに感じながら、フリースペースに来るように誘います。
「成長には必要」というよりは「慣れるための場」として紹介します。
引きこもりとはいえ状態の種類と程度はかなりの違いがあり、共通する言い方を選ぶ感覚です。
ところが言われたほうは、そんなちっぽけなことのために「なぜわざわざそんな所にいかなくてはならないのか」「行って役に立つのか」そんな気分になるのかもしれません。
そこで「用事」をセットしていきます(この用事のセットが安定するまでに、長い時間が必要でした)。
パソコンを習う形もその一つです。
パソコンで作業する、パソコンを教える。
これらは一連のことです。
ミニイベントもその一種です。
花見、花火、クリスマスなどは何度か行いました
。一緒に食べる(食事会)などもそれです。
これらはフリースペースの作り方の範囲に入ります。
ある程度の友人関係になると、当事者同士で一緒に美術館に行く、食事をする、コンサートに行く…ことも生まれます。
これらは対人関係の力の基盤になるところです。
「フリースペース」の形から、プライベートな「人のいる場」への進化といえます。
経験的に私にわかったことは、この過程は個人差が大きく(男女差や年齢差に加えて)数人で一緒に外出できるようになっても、依然としてフリースペースで取り組んでいる基礎的な対人関係づくりのテーマを持ちつづける人が多いことです。
卒業しているけれども何かの折りに未達成状態が表われやすいという印象をもちます。
この事態を推測すると「慣れる(適応する)」こと以上に大事なことがあり、それは「自己肯定感」による基盤のはっきりしたものが身につくかどうかと思えます。
それまでは、なかなか安定しないのではないでしょうか。
たぶん「慣れる」ということの一般的なレベルはこの適応する範囲のことなのです。
慣れること、適応することは、引きこもりから抜け出していく上で欠かせないことですが、そこに留まると、いずれ対人関係や社会生活に違和感、疎外感をもって引きこもりの吸引力に引き戻されていく可能性があるのです。
引きこもりから抜け出したといわれる人たちには、いわば適応レベルで抜け出した人が大勢います。
いや引きこもりを経験しない人のなかにもかなり混じっているように思えるのです。
そしてここにつぎのテーマ「実現する」意味が出てくるのです。

(3)実現すること
ここでいう実現は普通に使われる意味より厳密な実現するになるはずです。
例えば与えられた課題、上から指示されたことを支障なくこなすレベルのものは入らないかもしれません。
それができることは確かに大きな力量です。
しかしまた、それは「適応レベル」で出来る人もいるのです。
引きこもりを経験するタイプの人は、そのレベルでは不満足感がある、芯からの充実感を得られないように思えます。
繊細であるともいえるし線が細いともいえるのです。
この状態を私は以前に「人間が上等にできている」といって、意味不明なことをいうヤツと思われたことがあります。
それをマイナス要素と単純に考えられないのです。
ではどういうときに充足感・満足感・達成感をえるのかと言うと「自己実現」したときです。
実際にはなかなかそこまでの人はいません。
ただ「自分さがし・自己発見」をめざす若者は多くいます。
これが象徴的に様子を示しています。
就職したけれども思っていたのとは違うので辞めると、就職数か月で退職する人が多くいます。
就職難の時代なので目立ちませんが消えたわけではありません。
いまの若者の父親・母親世代には、あまりなかったことです。
少なくとも頻繁に見聞きすることではありません。
父母世代からすれば「贅沢をいう」感覚でしょう。「そんなことを選べる状態ではなかった」というのが父母世代です。
それなのに自分の子どもはそうしない、父母世代にはそこがわからないのです。
このような若者がどれくらいの割合でいるのかはわかりませんが、「本当に自分のやりたいことをする」と真実にいう人たちは、これに入ります。
一方、引きこもり経験のある人たちはそのエネルギーはないけれども、自分をうまく生かしたい点では共通しています。
そのための過程・手段をつかみ損ねてきたのが引きこもりの人たちに多いのです。
上の一見かなり違うように見える若者と引きこもりの共通項が「自己肯定による自己実現」です。
一方の人は、エネルギーをもって動きます。
他方の引きこもりは自己肯定感が得られずに動揺し、足が止まっているのです。
ここへの対応は「慣れる(適応する)」から始まって「自己肯定感の獲得」に向かうことです。
確かにそれは2段階ありますが、「適応レベルを達成に考える方法」と「そこから自己肯定感に向かおうとする方法」では、適応(慣れる)の内容が違ってくるように考えられます。
引きこもりの人に、適応レベルに留まらないで自己肯定感レベルの感覚、状態に向かわせたいのは、社会に関われるようになったとき、不安感が戻ってきたときの対処に違いが出てくると思えるからです。
引きこもりになる繊細さをもつ人たちのなかで、この方法の違いがどれだけうまくいったのかは、わかりません。
私がかかわった人の範囲でもうまくはいっていない実例は少なからずありますし、見聞きもします。
ですから私の方法は「考え方」として話すしかありません。
もしかしたらこういうのを信条というのでしょうか。

(4)自己肯定感をのばす場(フリースペースその2)
私の対応方法を、指導ではなくほとんど野放しと感じる人もいるでしょう。
私なりにはこのスパンの長い過程、根本的なところを見て対応しているつもりです。
日常的な生活や人間関係にあれこれ口出しをしない。
ある程度は任せてその結果にあれこれ言わない。
失敗もまた経験ということもある。
そのことによって事態(とくに人間関係)が悪くなったり後退する不備、そういう対処を出来るようにしていない怠慢などを責められたことも再三あります。
それらの批判が当たっていることも多いでしょう。
私には崩壊に繋がらずに、このような目標の場が維持できてきた面がより本質的な意味になると思います。
私は批判を受け求められた対応方法に対してごくあっさりと「趣味ではない」ということもありました。
この返事の中身はいろんな要素が含まれます。
公平でない(事実の確認や判断において公平を優先するもので、中立とは同じではないかもしれません)、時期や状態において適切ではない、ことに当事者間で何かできないのか様子を見たい(これが難しいとわかっていてもその時点での介入は早い)などです。
そういう考え方において、実際にどんな立派なことをしているのか聞きたくなるかもしれません。
不登校情報センターの運営のしかたで引きこもり当事者に対してはなるべく何もしないことを最良と考えて、粘り強く、制約を少なく、集まっている人の経験と気づきを優先していく。
これがおおよその答えになります。
質問をする方には、肩透かしのような答えに聞こえるでしょう。
しかし、これは私にとっての真実であり、実感であり、最善と考えていることに間違いはないことです。
いくぶん意図していることは、細々としたことにはなるべく口をはさまない、質問されてきたことには答える、設置者でなければ考えつかないような場を企画する、いろいろな事態に柔軟に正当に攻撃的にならずに対応する。
たぶんこの辺りではないかと思います。
もちろん実際の例はそうでなかったことも数々あるはずですが、私の意図はこのようなものです。
そしてこのようなもの、少なくともこのような種類のものが引きこもり当事者の自己肯定感につながる気付き、自己発見、体験(経験)にとっていい、必要な場に近い様子を示していると考えるのです。
あいかわらずわかりづらい、つかみがたい答えです。
簡単にわかり、すぐに出来るものよりも、本当に身になるものを探し求めてきたつもりです。
いらぬ遠回りをしてもいます。
それに付き合わされた不運を恨む人もいるかもしれません。
それら全部を含めて、引きこもり当事者が本物の自己肯定感を得るのに向かい役立つと、これは密かに念じています。

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