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Center:2009年5月ー発達障害と不登校・不登校・引きこもりの支援現場での実感

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発達障害と不登校 不登校・引きこもりの支援現場での実感

〔2009年5月16日 註:この文書は2009年3月にある冊子に掲載されています。書かれた時期はそれ以前です〕
1995年の秋に不登校情報センターを名乗りました。
実態は私だけの〝組織〟ですが、『登校拒否関係団体全国リスト』という支援団体を網羅する情報提供本を発行するに当たり、
出版社から編集者(著者名)をどうするのかと問われ、答えた名称です。
教育系の出版社にいたころから不登校に関する相談を受けていました。
独自の情報センターができると、一方では親からの相談があり、他方では不登校経 験者が顔を見せるようになりました。
こうして不登校経験者(以下、引きこもりなども含めて当事者という)との直接の付き合いが始まりました。
設立の初めから周りには当事者が数名はいたのです。
しかし、一度にみんなが集まることはないので、翌年8月に「通信生・大検生の会」と名付けてサークルにしようと試みました。
それで少しずつ何人かが顔を合わせるようになりました。
徐々にメンバーは増え、1998年7月には50名を超えました。
ところが集まる機会にやってくるのは10名をなかなか超えません。
会員名簿を作り、自己 紹介を書くようにしたところ、サークルの集会に参加しない会員のなかで文通が始まりました。
この文通システムはいまも続いています。
会員になる人や集まってくる人は、通信生や大検生に限りません。
不登校のまま、高校中退生、不登校体験のある大学生、はては仕事に就けない、友だち がいない、人間関係ができない…
など実にいろいろな人がいます。
これらの全体が当事者になるのです。
会の名称もそれにより変更したり、ミニグループが枝分 かれをして生まれたりします。
薬をのんでいる、精神科に通っている、引きこもっていた、年齢も十代から20代、20代後半、30代とあがり、どんどん多様化しました。
2000年の「引きこもり元年」といわれるころには、実質8畳余りのスペースに30人以上が入ることもありました。
その後、ある大検予備校の提供するビルに移り、スペースの狭さは解消しました。
2001年6月のことです。

(1)「発達障害」視点以前の不登校・引きこもりの理解

たぶん私の不登校または引きこもりに関する理解は、この期間を通じて少しずつ変わってきたはずです。
その理解のしかたの到達点を主に2004年10月ころに書いものから要点を挙げてみます。
(1)繊細な人たち
当事者の傾向の中心になるのは「(周囲の人の)心の雰囲気のわかる人たち」です。
当事者も20代、30代になると中学時代や高校時代に距離をおいて 語れる人が出てきます。
「母がぼくの部屋を開けるとき、その開け方で何をいうのかはわかりましたね」とか
「担任がとりつくろっていうのか、本気なのかはすぐに見分けられます」とか、言葉以外の材料で的確に判断していることはいっぱいあります。
雰囲気でわかるという意味です。
当事者の会を取り上げてみると、その日、その場ごとに様相はずいぶん違います。
活発に議論しあるというのはまずありません。
静かだけれども“激しいぶつ かり合い”の場になっていることもあります。
ことば以外の雰囲気、“電波”が飛び交っているというのです。
「あいつはオレのことを歓迎していない」というので「何かあったのか?」と聞くと、「何もないけど間違いない」。
試しに相手に聞いてみたら「どうもああいうタイプは苦手なんです」と聞いたこともあります。
雰囲気により相手を相当に判断しています。
遠慮がちで特定の人に向かって批判的な意見をいうことはまずありません。
それは相手を傷つけないだけではなく、自分を予防的に守る方法をとっているためです。
初参加者はなかなか数名いる場に入っていけないので、
私が「○○くんです。今日はここに座っているのがテーマなのでよろしく」みたいなことをその場で言って加わるようにします。
当事者が人とふれあい、人のなかに入り、人間関係をつくるスタートです。

(2)いろいろな傾向の人
しかし当事者の会には、繊細な感性の持ち主としていくぶんは共通していますが、同時にいろいろな人が混じります。
正確な分類は困難ですが、おおよそ次の人たちが加わっています。全体合計で2~3割はいると推定します。
*精神疾患系・・・統合失調症と類似傾向。症状や状態として離人感、無気力、感情抑制(無表情)など。
*パーソナル障害・・・境界性パーソナル障害、攻撃・怒りを出しやすい(多くは自己申告してきますが、何人かは自己申告をしないか、意識しないパーソナル障害)。
*ニート的・・・2004年ころからニートのことばが使われ始めましたが、以前から自分探し、打ちこめるものが見つからないという人はいました。
*発達障害系・・・これは別に書くことにしましょう。

(3)発達障害の人
文献のなかでは90年代から知っていましたが、2001年に「LD(学習障害)です」といって参加する人が現れました。
当初は不登校と区別する意味を感じないで受け入れました。
違い(?)がわからなかったのは不登校・引きこもりとしていた人にすでにLDの人が混じっていたと思えること、
LDの診断が曖昧で不安定と思えたためです。
その後、AD/HD(多動性障害)やアスペルガー症候群の人が来るようになりましたが、診断のされ方には〝ブーム〟があり、
初めのうちはLDが、やがてアスペルガー症候群と診断されるケースが多くなりました。

*アスペルガー症候群と高機能自閉の違いはいまでも感覚的にとらえきれないところがあります。
発達障害の視点が学校教育のなかに本格的に持ちこまれたのは2003~04年ころだと思います。
それが社会的にも広がり、これまでは不登校・引きこもりといわれる人を見るのに一つの視点を与えたと理解しています。
私は当時まだ区分けできなかったのです。
振り返るとあの人はアスペルガー症候群(の程度 の高い人)であり適切に対応していなかったと思う人もいますが、
当事者の会としてはパーソナル障害の人への対応にそれ以上に苦心していたと記憶しています。

(4)友人を求める
これらの当事者の会に集まるいろいろな人の共通するのは、人とつながりたい、友人関係をつくりたいことです。
「不登校や引きこもりなどの共通の体験をしている人たちで理解しあえる」として、
公共機関や医療機関から紹介されてくる人も少なからずいます。
この紹介のことばは正確ではありません。
当事者にとっての当事者の会をより正確にいえば「天国とともに地獄」、もう少し穏やかにいえば「甘味と苦味が混じっている」のです。
「私を受けとめてほしい、理解してほしい」という風は強く流れていても
「あなたを受けとめよう、あなたを理解しよう」という風の流れは少ないのです。
精神的に厳しい修行を求められるとたとえることができます。
先輩格のいくぶん元気になった人がうっかり「受けとめよう、理解しよう」という気持ちを発すると、
持ちこたえられないほどのマイナスエネルギーを引き受けることになります。
そのために実際「うつ状態」なり、しばらく引きこもり生活に戻った人もいます。
そこまで極端ではなく、距離をおいて耐えられる程度の負担を感じながら人と関わる経験を重ねていく、それが当事者の会です。
その経験を通じて人とつながる、相性のよい人が見つかる、友だちになれる。
その時間はまた人間として成長し、社会性を身につけていく時間です。
これらの全体が修行をしながら身につけていくものです。
経験則でいうと友だちといえる関係の人が3~4人できる、
期間でいうと2~3年かけてアルバイトや登録制の派遣社員になろうという気持ちに到達します。
個人差は当然あり、7年かけて週2半日のアルバイトになった人もいます。
個人として、当事者の会の場面では元気そうに見えても友人関係がうまくできない人は、働き始めても長続きはしません。
いったん仕事についてもしばらくしたら辞めていたというのもよくあることです。
男女差もあり、女性は意外なことに (?)接客業になる人が少なくありません。
ともかく何らかの形・状態で仕事についたのは3分の2くらいです。

ほかの学校(20代後半 以上からの大学。パソコンや資格取得などを学ぶ)が数%、障害者の福祉作業場などに通う、
再び引きこもり、病気の療養生活に入る、連絡が取れなくなる、たぶん何もしていないのでは・・・と思える、などが「その後」の様子・状態です。
これらの結果をみて、それでも貴重な取り込みになっているといわれれば、あえて否定もできません。
しかし私には 納得できず「こんなのじゃいやだ!」という思いもなくなりません。
彼ら彼女らはしぶしぶと、もしかしたら自分を殺した状態で社会に入り、仕事についているのが多数のように思えるからです。
適応させられ、自己肯定感なき社会参加です。
こんなことのために大仰な「不登校情報センター」の看板を掲げているのか。
それを思うといつの日かそこを突破したいです。

(2)「発達障害」視点以降の理解

(1)子ども時代の適応指導
2006年秋から毎月、発達障害の学習会を始めました。
主に訪問サポート部門の取り組みで、同じ時間帯に引きこもりの親の会を主催していた私は、そこには参加できませんでした。
『DSM-Ⅳ』(精神疾患の分類と診断の手引)などの文献を参考にして発達障害をわかろうとし、
学習会参加者の意見を聞いてみたりしました。
振り返ると人間像や状態がピンとこなくて、頭での理解に終始していた気がします。
2007年の秋、学習会が始まって1年したころ、学習会と親の会が1週間ずれるときがありました。
そこで私は学習会に参加できました。
子どもの実例をあげながらのアスペルガー症候群の話を聞いていくうち、なんと自分の子ども時代と似ているのかと驚きました。
「そうか、私はアスペルガー症候群だったのか」と気づいた瞬間です。
ときに62歳です。
そこを起点にしてこれまでを振り返ってみると了解できることが次つぎと湧いてきます。
子ども時代に「変わっている」といわれたこと、学級内ではグループに入らず「公平さ」を買われて学級委員長などに就かされやすかったこと、
小学校3年頃から毎日のように地図ばかり見ていて、中学生になると辞書づくりに進んだこと、小説も書いていました。
一人遊びゲームも自作していました。
数え上げれば際限ないくらいアスペルガー的特質で説明できることがあります。
私の子ども時代には社会的にはこのような視点はなかったのですが、看護婦だった母は兄弟5人のなかで私の異質性を認め、
「特別支援家庭教育」をしていたように思います。
小学校5年と6年の2人の教師は地理好きの私を「地理ができると他の科目もできるようになる」
「(もう一人の地図好きと一緒に)模造紙2枚分の世界地図を書いてほしい」と頼んできて、肯定的に関わってくれたのです。
これが私に「これでいい」という感覚をもたせてくれたのです。
斜視と色弱がある、箸の持ち方がおかしい、味覚過敏があり食べ物の好き嫌いが多いなど身体的な事情も
アスペルガー症候群に関係していたと了解できます。
しかし食べ物に関する以外は社会生活で困ったことはありません。
子ども時代の家族と教師の働きかけ、何よりも人々がゆっくりとしていた時代背景が身体的な障害を社会的な障害にさせなかったのです。
子ども時代にこのような教育環境があったから、思春期から青年期にかけて人間関係は苦手ながら
大きな疎外感を体験せずに切り抜けられたのではないかと思います。
私の体験からすれば子ども時代がとくに大事だと認めないわけにいきません。
そういう意味での現在のとくに就学前、小学校、中学校での発達障害視点に基づく教育環境づくりは意味があります。
そこでの対人関係づくりは、その後の成長や人生の土台をつくります。

(2)青年期以降の適応指導
いまの私の周囲には当事者が集まってきます。
彼ら彼女らの一人ひとりをよく見ることが求められ、
しかも発達障害という多面的要素をもつ手がかりになる視点が提供されています。
しかしまた思春期以前の子どもとは重要な違いも意識せざるをえません。
20代(後半)以上の青年にたいしてはどうするのかというものです。
子ども時代ならば、友だち関係づくりを「適応」から始めてもいいのでしょう。
個人差を考えれば十分とはいえないまでもだれにでも役立つことはありそうです。
しかし20代後半以上の人に「適応」に終始するのは疑問も多くなります。
発達障害視点の教育方法を発展させなければ、この年代の当事者を社会の底辺に追いこんでしまう。
社会参加はできるけれども、本人には意味の少ない社会参加をさせてしまうのをおそれます。
私の当事者への関わり方は、あまりよく意識されないままでこれらに関係してきたと思います。
私は自身が考え意識している以上に「適応」よりも興味・関心のあるものを伸ばす方向に傾いていたはずです。
これまでは確かな手応えが得られるレベルに届いていないとしても。

どう発展させるのかは、私に関していえばこれからの試行錯誤にかかっています。
当事者が周りにいることは、どうするのかの糸口の提供者がいることでもあります。
基本姿勢は同じでしょう。
「適応」を超え、自己肯定感に基づく本人自身が動いていきやすい環境をつくることです。
それにはもっと人間の奥深い理解を要求されている感じがします。
周りに当事者がすでにいることはチャンスがきていることかもしれません。

(3)当面の2つの課題
この状態は対象が明確になっているのに、対応の方法が見えないことです。
こういう条件が整っていない状態はある種の行き詰まり、壁にぶつかっていることになります。
こういうときにこれまで試みてきたことは比較的共通しています。
現実に発生していることを、対処療法的に小器用にうまくやるのではなく、目線を低くし、
とくに困難とおもえるテーマの基本を考えることです。
私の場合でいえばそれはいま急に浮上したことではなく、この数年の課題として考えつづけてきたことになります。
基本は「(社員や就職にかぎらないで)引きこもり経験者の自己肯定感に基づく社会参加の実現をめざすこと」です。
それは単に引きこもり経験者の課題ではないでしょう。
もしかしたら全ての人の課題かもしれません。
引きこもり経験者だからそのような課題がことさら鮮明にできるのです。

私あるいは不登校情報センターは、この面で2つの取り組みをしています。
1つは「パソコンを収入源になる生産財にすること」です。
引きこもり経験者 十人余りがこの作業に関係しています。
近い将来、彼ら彼女らの数人がこれを職業にすること、
いいかえれば不登校情報センターのこのHP制作部門を働ける職場にすることです。
まだ先行投資のところでしょうが、独自の事業にできる入り口まではたどりつきました。
当然、職場として働くのには抵抗感のある人も出るはずです。
その反面で「この人たちとなら働ける」「パソコンのこの部分なら楽しくできる」という人もいます。
これはミニサイズですが納得できる社会参加の場になる可能性を持っています。

いま一つは「創作活動」です。
いまは何らかの実現からはかなり遠く離れたところにいます。
だから多くは語りたくはないです。
これに加わると言いそうな人はまだ一人しかいません。
しかし、私なりの調査によれば他の社会集団と比べたとき、当事者の関心はこの部分に顕著な集中を示しています。
取り組みが具体的に進み、当事者の直接、間接の関わりがふえていくと、いずれは組織的な仕組みが生まれ、
ここに自分の人生の見つける人も表われるかもしれないと期待しています。
いまの私には、20代後半以上の(なんらかの発達障害を含む)当事者が、成長の過程でつかみ損ねたもの、
それをどう補充するのかは十分に説明できません。
補充することが絶対的に必要なのか、それぞれの年代で獲得するもので間に合うのか、
そういうことさえ私にははっきりしないことです。
わかるのは当事者それぞれが納得できなければ、社会参加の意味は半減することです。
自分の最も大事なところを押し殺していくのではなく、自己肯定感ないしは納得により社会にかかわる方法、
そこに近づくための取り組みは続きます。

*5月3-4日に第3回創作展を開きました。
「創作活動」について、この取り組みから少しわかることがあります。
それについては次の号で紹介いたします。

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