Center:2005年1月ー「こころ(心)が育つ」とは何か
Center:2005年1月ー「こころ(心)が育つ」とは何か
〔2005年1月9日〕
(1)からだが育つ
「思春期には心身が育つ」といいます。
こころ(心)が育ち、からだ(体)が育つというわけです。
からだが育つのは、外見からもわかりやすいことです。
身長が伸び体重がふえる、男の子が男らしい、女の子が女らしいからだつきになることです。
肉体的な力が強くなることも加わるでしょう。
からだが育つ材料は、食事をとり、睡眠と運動が重要な要素になります。
そのほかにもいろんな要素が関係しますが、少なくともこの3つの要素が安定していれば、からだは育つものです。
(2)こころは見えるか
一方、こころ(心)が育つというのはどうでしょうか。
こころは目に見えないものです。
いや精神的にハツラツしているとか落ち込んでいる、というのは一目見ればわかることもあります。
では一般的に「こころは見えるものです」といえるのかとなると「いやさっぱりわからない」ときもあります。
見えないようで見えるときもあり、見えるようで見えないもの、それがこころです。
ところで、元気ハツラツであるとか落ち込んでいるのが、こころなのでしょうか。
違う気もしますが、少しは関係するように思います。
さらに小さなころから元気ハツラツな人が大きくなってからも元気ハツラツしているのなら、こころの成長があったのでしょうか?
逆に子どものころハツラツしていた人が十代後半なって沈んでいたらこころの成長は後退したのでしょうか。
こころとは関係するけれども、こころ自体ではないように思えます。
こころ(心)というのは辞書ではこう書いてあります。
「特に人間に顕著な精神作用を総合的にとらえた称。具体的には、対象に触発され、知覚・感情・理性・意志活動・喜怒哀楽・愛情・嫉妬(しっと)となって現れ、その働きの有無が、人間と動物一般、また敬愛・畏怖(いふ)の対象となる人と憎悪・けいべつすべき人間を区別するものと考えられる」(『新明解 国語辞典』(第4版)三省堂 1989年)
辞書にある「こころ」の守備範囲はかなり広いようですから、上の事柄もこころの一端を占めることはたしかです。
しかし私には「こころが育つ」というときの中心点は、このような幅広いことの全体というのではなくて、焦点とすべき中核部分があり、それにともなってさまざまな部分が積み重なっていくのだと思います。
そこで私が焦点と考えているこころの中核部分にすすみましょう。
(3)肝がすわる
先日、十代の男子に「こころが育つ」とはどんなことを指しているのかをきいてみました。
ちょっと考えてからの答えは「肝(きも)がすわっていること」というものでした。
なかなかいい答えです。
自分の中でも、周囲の人たちの中でもいろんなことが起こる。
けれども動揺しないで、自分らしさを保ち、なすべきことをなしていく。
それが「肝がすわっていること」でしょう。
それが「こころが育つ」という意味だということになります。
私はこの答えをきいて「他者(ひと)は他者、自分は自分」である、マイペースを守れることと同義になると思いました。
「肝がすわっている」というのはそういうことかと確かめると、彼はうなずいて「他者は他者」というのが難しい。
他者との距離がうまくとれなくて、それが自分の問題になってしまう。
だから「自分が自分」というのも自分を区切って考えられない。
そこが弱い、と話してくれました。
こころが育っていない、こころが弱いというのは、そこかもしれないという意味の感想を述べました。
(4)心が育つ
すでに上の話のなかに「こころが育つ」とは何かが現れています。
これをもう少し言いかえてみましょう。
「他者は他者、自分は自分」、マイペースはなぜ保てるのでしょうか。
他者(ひと)の考え方や生き方は、自分の考え方や生き方と異なるもの、違うものです。
理屈のうえでも感情的にも他者を尊重できることが関係していることがうかがわれます。
他者がいろいろな生き方、考え方を認められる感覚になること、それが「こころが育つ」ことの内容になります。
反対側から見ると、自分の考え方や生き方は自分独自のものであって、それは他者(周囲の人たち)から尊重されることです。
このようなことは人間社会にとってごく当然のことです。
人間はそれぞれが自分の個性、自分らしさを保ちながらお互いの考え方や生き方を尊重していくことになります。
これを理屈としても、感情・感覚的にも自然に身についていくこと、これが「こころが育つ」ことの内容です。
心が育つ材料は何でしょうか。
からだが育つ材料に食事、睡眠、運動などとすれば、それに匹敵するこころが育つ材料は何でしょうか。
私は「こころが育つ」材料には、友人(人間)関係と自分の体験の蓄積(これには学習と、日常生活などが含まれる)が重要な要素だと考えています。
私は少し前に「子どもっぽい」に関するエッセイを書きました(「新小岩親の会」サイトの絵手紙兼学習会 2004年12月「"子どもっぽい"のはワケがある」)。
「子どもっぽい」ことの詳しい内容をここでは繰り返しませんが、「子どもっぽい」とは同時に「心身の育ち」が停滞していることです。
「子どもっぽい」の一面は「社会性が育っていない」ことも関係していると述べました。
そして今回は「こころが育つ」面から、この問題を述べたことになります。
これらはいずれも思春期のところから顕著に見られるもので、思春期の課題といっていいものです。
しかし、思春期の年齢になったら、だれでも自動的にそうなっていくのではありません。
「心身が育つ」とはだれでも自動的になるのではありません。
思春期以前の子ども時代(乳児期にまでさかのぼる)からの、それぞれの成長過程でのふさわしい過ごし方、認められ方(ほめられることなど)、周囲の人たちの愛情なかで、少しずつ準備されてくるものです。
それらが思春期にさしかかったところで、人それぞれのしかたで開いていくのです。
当然そこには個人差があらわれるものです。
(5)葛藤のしかたにも個人差
思春期以前の子ども時代に、抑圧されてきた体験(虐待やいじめ、さらには継続的な指示・干渉の生活状況)を重ねてくると、思春期のところで、自分らしさが見つけられず、立往生することになります。
停滞して苦しく、前に進めない、戻りたい感覚になるのです。
私の周囲にいる不登校や引きこもり経験者には、多かれ少なかれこのような状況がみられます。
そこから抜け出そうと葛藤し、苦しんでいます。
その抜け出そうとする力(エネルギー)はそれぞれの人の中に潜んでいます。
抜け出していく方法・経路・過程は、人それぞれで、それぞれが試行錯誤のなかで見つけ出していくものです。
成功もあれば失敗もあります。
そのこと自体が人間の成長です。
サポートの形が、この本人の試行錯誤の過程を奪ってしまうのが、私は最大の失敗になると考えています。