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Center:2002年6月ー引きこもる理由

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目次

引きこもる理由

〔社団法人倫理研究所の取材を受け、その『新世』2002年6月号の連載「子どもたちは今(6)」として掲載されたものです〕
現在、引きこもり人口は50万人とも100万人とも言われている。
十代や二十代に限らず、三十代の大人にまで、なぜ「引きこもり」という現象が起きるのか。
東京で不登校、引きこもりの人とその家族を支援するNGO「不登校情報センター」代表の松田武己さんにお話を伺った。
(取材と構成・桑原忍)

長い思春期を越えて

「引きこもりの」の背景については、主に三つに分けています。
一つ目は子どもの頃に受けた虐待やいじめ。
二つ目は家庭崩壊、そして広い意味では虐待に含まれる放置(育児放棄)。
三つめに過保護です。
虐待や放置は「愛の不足」、過保護は「愛の過剰」と表現できます。
愛が不足しているのか過剰なのかによって、引きこもりに至る経路は異なりますが、引きこもりの状況そのものは似たようなものです。
どういう経路で引きこもりになるかというと、子どもから大人になる時に、大人になり切れない、あるいは大人になろうとするエネルギーが湧いてこないといったことから生まれてくると考えられます。
思春期以降、つまり子どもから大人になる時期に、「愛の過剰」や「愛の不足」を経験していると、それがエネルギー不足や意欲不足、言い換えれば人に対する安心感の欠如や人間不信をもたらす。
それが大人になることを妨げてしまうのです。
こうした子どもたちは思春期が長く、三十歳以上まで続いたりします。
思春期を思春期らしく過ごせないで立ち往生したり、あるいは前に進もうとしても困難を大きく感じて、精神的な逃げ場を求めて引きこもり、人間関係が薄れてしまうのです。
警戒感が強いとか、対人恐怖が出るなど、表われ方には個人差がありますが、人に対して安心感を持てないという点は共通しています。
引きこもりには、もちろん先天的な要因もあります。
しかし今や社会現象と言われるほど多くなっていることから見ても、そこには先天的要因を越えた、大きな社会的要因があると言えます。
例えばいじめや虐待の場合は、人間に対しての安心感を壊されてしまうために、人に対して非常に強い恐怖心を抱くようになります。
おそらく放置や家庭崩壊の場合も似ているでしょう。

失敗する経験も

特に子どもが小さいうちは、親から愛されるという経験を通して人間に対する安心感が生まれてくるのですが、家庭が崩壊していたり、あるいは夫婦喧嘩ばかりしている家庭では、子どもに大きな不安感が出てきて、安心感が育ちません。
僕が見ている中では、家庭崩壊などの愛の不足のケースは比較的分かりやすいのですが、気をつけなければならないのは「愛の過剰」のほうです。
では「愛の過剰」とは何か。
いくつか例を挙げてみましょう。
一つは、子どもが忘れ物をしないよう、母親が学校の用意を全部揃えてしまうようなことです。
これなら子どもは忘れ物をしないかもしれない。
けれどもそれは子どもではなく、母親の行動なんですね。
それを〈うちの子は忘れ物をしない〉と思い込んでしまう。
遅刻もそう。母親に起こされている子は絶対に遅刻しない。
でもそれは受身なんです。

二つ目は、親がいつも「挨拶をしましょう」と子どもに言っておきながら、実際にその場になったら、親が先に「挨拶しなさい」と言ってしまうような場合。
親が待てないんですよ。
これでは子どもの中に自主的に挨拶する力は育たないでしょう。

三つ目は着る物やおもちゃなどを選ばせる時に「これが似合う」「これがいいわね」と、親が勧めてしまうことです。
子どもというものは、親が喜ぶことが好きなんです。
だから「それでいい」と答えてしまう。
それを親は、〈子どもが自主的に選んだ〉と勘違いする。
中学や高校の進路についても同じです。
子どもは親の勧めに「ハイ」と言うでしょう。
でもそれは自主的な選択ではないんです。親が決めているのですから。

四つ目は、自分の部屋の後始末や食事の後片づけなどの家事をさせないことです。
代わりに「勉強しなさい」と言う。
この四つだけではないでしょうが、子どもは、全部受身なんです。
これが小さい時からずっと続いていく。
二十代後半になってから引きこもる人は、こうした家庭環境の中で育った人たちが多いんです。
そこには失敗はない。失敗しないということは、自分で経験していないということなんです。
ヨチヨチ歩きの幼児は転びながら歩けるようになります。
しかし愛の過剰は、社会的なことについて、転びながら身につけるチャンスを奪っているんです。

引きこもりからの脱出

引きこもりの子どもの性格は共通して優しい、自己主張が弱い、几帳面で大人しい等です。
要するに「いい子」なんです。
学校の成績が優秀という子も多い。
成績が良ければ良いほど、親の期待にずっと応えていくことになります。
もし、小学校高学年ぐらいで、子どもが勉強についていけなければ、親はそこで自分の考え方を方向転換するでしょう。
しかし、成績がいい子の親は、方向転換をしないまま、ずっと自分の思い通りの子になるようにと期待してしまうんです。
そうした中では、子どもの自主性や意思の表現力は弱いまま成長していきます。
僕は、そこから抜け出していく経路は三段階あると考えています。

第一段階は、家族を含む人とのコミュニケーションをとれるようになることです。
これは子ども自身が、自分は受け入れられている、という安心感を持つことができるかどうかにかかっています。
親は学校に行くのを嫌がる子どもに対して、「学校に行かなくてもいいよ」と言ってあげても、言葉と顔つきが一致していないという場合があります。
言葉だけではダメなんです。
最初は仕方ないと思いますが、言葉と顔つきが自然に一致するようになってくれば、コミュニケーションもとれるようになるでしょう。

二、三十代の子の場合も同じで、「働いたら」とか「将来どうするんだ」と言った言葉は子どもにはきつすぎて、心を閉ざしてしまう。
車やパソコンなど、趣味のこと、または「ちゃんと食べているか」など衣食住などの身近な話題のところから、声をかけてあげるとコミュニケーションがとれてきます。
家族とのコミュニケーションがとれない場合でも、友達とはコミュニケーションがとれることがある。
たとえ本人だけでは外出できなくても、友達などと一緒なら、図書館とか、近くのコンビニに行くことができるようになりますこれが第一段階ですね。

第二段階はかなり個人差でいくつかに分かれます。
ある人は自分の好きなことは何かといった「自分探し」です。
またある人は「芯がない」「土台がない」といったアイデンティティーの確認であったりする。
また社会性が育っていないために、社会に対する実感がなく、人間関係がよく分からないので、「どういう時に謝ったらいいんですか」などと、確認したがる人もいます。
これらは、みんな根っこの部分では繋がっているんです。
自分の意識する部分をテーマに進むことになります。
かなり共通することは、絶対的に自分を受け入れてくれるということが確認されないと、前に進めない点があります。

第三段階は、社会参加。社会参加というのは、仕事探しやアルバイト、ボランティアなどです。
アルバイトをしながら、何かの技術を身につけるというのでもいい。
もちろん全員が、必ずこの道を通らなければ抜け出せないといったものではありません。
飛び越えていくという例もあるでしょう。
ただ細かく見ると、このような経路は何らかの形で踏まえた上で進んでいるようなのです。
頭で分かっていても、実行するのは難しい。自分の道を選ぶには、エネルギーがいるじゃないですか。
エネルギーがないと、そっちに行くのがいいと分かっていても動けない。
ガソリンがないと車は動かないのと同じわけです。

まずは理屈で分かるしかない。
人によっては、人にほめられて嬉しく感じた時に、それが感覚的に分かって、パッと変われたということもあります。
特に年齢が下である場合は。ところが年上であればあるほど、そういう風にはなりにくい。
一段ずつ着実に上がっていく感じがします。
そのとき必要なのは勇気とエネルギーと行動。
これはほとんど同じ言葉です。行動を起こすために必要なのは、エネルギーか勇気でしょう。
重たいものを動かすのは、最初が大変です。
ものすごくエネルギーが要ります。
それこそ根が生えたように動かない物でも、一度動き始めれば、調子づいていくでしょう。

悩みを突き抜けて

「人間は二度生まれる。一度目は存在として、二度目は人間として」
とルソーが言いましたが、この「人間として」が課題なんです。
その時期は反抗期や思春期であったりするんです。ある意味で激しい時代です。
この激しい時代を突き抜けることが出来ずに迂回したり、あるいは中途半端にそれてしまうとこれを突破できない。
十七歳だろうと、二十代後半だろうと、大人になるための苦しみは必要なのだということをまず分かってほしいですね。
例えば初めから百キロの物を持とうとしても、つぶされてしまうから、まずは十キロの物を持ち上げてみる。
そうした訓練は人間関係の場面でも必要なんです。
おそらく安心感が欠如している人たちにとっては、人間関係を結ぶということは、絶壁を登るようなものなのでしょう。
だから話をしていても、〈高い物を買わされるんじゃないか〉〈自分をだまそうとしているんじゃないか〉という警戒心を起こしてしまう。 このように相手があまりに警戒心を持つと、コミュニケーションをとっているほうも不安になるんです。
それで相手も離れていってしまう。
苦しいけれども、それを少しずつ訓練していく。
やらなければ苦しまずに済むけれども、それでは人間としての成長は、止まってしまう。
悩みを突き抜けて歓喜に至る。
ベートーベンの「第九」ですよ。
引きこもりから立ち直ろうとしている子ども、特に二十代後半以上の子どもに対して、親ができることは限られています。
手出しや口出しをせずに、応援する姿勢で見守っていく。
親にとって一番大切なことは辛抱なんです。
基本的には親は何もやらないほうがいいのですが、コミュニケーションがうまくとれない家庭の場合は、家族同士で話ができるような、温かな環境づくりが大切でしょう。
決して子どもを引っ張って行こうというのはいけません。
外出の機会を増やすのはいいでしょう。
子どもが笑えるようになってくれば、少し安心です。
笑うといっても、顔を少しゆがめるくらいの表情ですけども、それでも喜怒哀楽が出て来るというのは、精神状態が少し向上した証拠なんです。

親を乗り越えていく

引きこもりは百万人と言われていますが、本当はもっと多いんじゃないかな。
百万人の若者が病院のベッドで動けずにいるところを想像してみてください。
百万人が働けないというのは相当なものですよ。
それが一般の人には見えていない。
これは、引きこもりの人たちやその家族が、この状態を発表しない限り分からないでしょうね。
しかし、引きこもっている本人たちは、自分を表現することが苦手なわけだから、少なくとも、引きこもりからある程度抜け出した人たちが、このことを社会の人々に理解してもらうようにしていくことは大事だと思います。

そしてこれは僕らが言うしかないのですが、引きこもりの人たちが犯罪を起こす可能性は少ないんです。
確かに新潟の監禁事件を起こした彼も、広い意味では引きこもりでしょう。
けれども、引きこもる子はもともと優しい子たちなのです。
もちろんどんな人だって、キレることはあるから犯罪はゼロではありませんが。
「うちの子はいい子だから、反抗期がなかった」などと言って喜んでいる親がいるけれども、これは間違いです。
人間が大人になっていくためには、いい子なだけではいけないんです。
自分を試しながら自分をつくるわけですから。
子どもが親に対して反抗することで、親を乗り越えていく、あるいは親とは違った道に進んでいくということを、親が容認していかなければいけないということです。
親たちが自分の枠の中に子どもたちをおさめようとすることが、引きこもり候補者をどんどんつくっていることになるのです。(談)

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