Center:1999年10月ー「こみゆんとクラブ」の若者たち
「こみゆんとクラブ」の若者たち
〔1998年〕
サークルレポート(登場人物はすべて仮名)
わからないから、探してみよう
できないけれど、やってみよう
情報誌との出会いからサークル結成へ
3年ほど前の6月、偶然にその個人情報誌―「JR」としておこう―をある喫茶店で初めて見た。
数千人の名もない(?!)人たちが、個人情報を掲載している。
パラパラ見ていると「登校拒否をしています」「通信制高校生です」「大検を受けたいので……」という言葉のあるメッセージがいくつかあった。
私が知っている人も2人見つけた。
そのうちの1人、穀文くんはいま「こみゆんとクラブ」というサークルの一員になっている。
彼の名前は、この『こみゆんと』誌上に以前に投稿しているのを見て知っていた。
別のもう1人にも連絡したが、私の考えた取り組みには参画しない旨の返事が届いた。
その一方で、私自身もその「JR」誌に個人情報を投稿した。
「通信生・大検生の会」を作ろうと。
8月4日に第1回の集まりの機会を持った。
集まったのは穀文君とその友人2人と私を含めて全部5人だった。
穀文くんの友人の1人は那飾(なかざり)くんといって、いまも会のメンバーである。
もう1人の参加者が熱川くんである。
実はある新聞社の記者も来ていたのだが、あまりの参加者の少なさにバカらしくなったのか、しばらくしていなくなっていた。
熱川くんは熱血漢である。
高校時代に教師のやり方が気に入らなくてけんか、そして退学。
大検を受け、その初会合のときは、ある夜間大学の法学部の学生だった。
1昨年に卒業し、いまは法律事務所で働いている。
高校をやめたあと、比較的近いところで、大検生などを集めて教えているサークルがあり、熱川君はそういうものをつくりたい、そういう場に参加したい、と言っていた。
初会合でどんなことを話したのかはもうすっかり忘れてしまった。
特に何かを決めたというものではない。
この会合の調子は、それなりの発展を示しているいまも残っている。
会って話をする、それ自体が目標みたいなものだ。
交流とか情報交換とか言えばいいのだろう。
その役割について私は、当時はあまり気づいていなかったように思う。
8月4日以降、その1996年は8回くらい交流の場を持った。
参加者はだいたい4、5人、多くて8人だった。
年末には会員は23人になったが、一度も会ったことのない人が多数を占める(この状況は会員が増えたいまも変わらない)。
会報を8回ほど発送しているが、「通信生・大検生の会」という会名自体が会報名であった(98年の春に「Friends―Net新聞」に改称)。
回覧ノートのてんまつ
その年の最後の交流会(12月)のとき、熱川くんが回覧ノートというのを教えてくれた。
ノートを用意し近況やそのとき考えていることを書いて数人に回すというのだ。
あまり多く人のところへノートを回すのは行方不明になる可能性が高いと考え、3人に回し、その後は私の元に戻ってくることにした。
3人の名前と順番を指定し、回覧ノートがスタートしたのは翌年の1月。
3冊つくり、Tノート、Sノート、Wノートと名前をつけた。
このノートは、少なくとも、一年半ぐらいはメンバーの間をゆっくりと回っていた。
Tノートは、翌年には記載でいっぱいになり、T2ノートとT3ノートの2冊になって、再び回覧を始めていた。
だいたいその少しあとまでは機能していたが、その後4冊すべてが行方不明になった。
回覧ノートは受け取る側からは、思わぬ人から突然届くという意味での面白さがある。
一方、自分で書いたことがどう展開していったのか、知りようがないというまどろっこしさもある。
回覧ノートの持ち主として主宰しようとする人が私以外に現れ、運用のしかたなどを工夫すればよかった。
当時それを自分で主宰しようとする人が現れなかったことがとても残念だ!
主宰した私には、それなりの“成果”はあった。
ノートが回った先の一人ひとりのいろんな状況がわかったからだ。
大検を受けようと思っている。
通信制高校サポート校に入った。
バイトにあけくれている。
体験記を書いて本にしたい。
星占い(アストロジー)をやっている……。
いろんな様子が伝わってきた。
同人誌からの人生デビュー(!?)
水原香苗さんは、個人情報誌「JR」をとおしてメンバーに加わった。
当時は通信制高校で18歳。
その彼女が同人誌の発行を提案してきた。
会報「通信生・大検生の会」は14号から発行番号がつくようになっていて、彼女はこの提案を19号(97年7月5日)に掲載しておいた。
水原さんと1、2度、同人誌について話したあと、彼女から原稿募集案内兼企画書が送られてきた。
誌名は『ESCAPE』、原稿募集のテーマは〈My home もうひとつの我が家〉というのだった。
会報を読んだ桜井愛さんが一緒にやりたいと加わった。
2人は会ったり、電話でやりとりをして、準備をすすめていた。
2人ともそれについてはセミプロ的であったので、順調に進んだようだ。
ほかの会員からも手紙や手記、カット絵が水原さんの元に届いた。
私が“助言者”としてかかわったのは、それをいかに宣伝・普及するかだった。
2人の住んでいる茨城県南部と千葉県北部にある、ありとあらゆる(?)タウン誌、地域新聞などのリストをつくった。
全国紙の支局も含まれる。結局全部で200ヵ所のメディアがあり、10月に入ってできた準備号をそれらに一斉に送った。
大反響と言ってよかった。
2人は、特に水原さんは多くの取材を受けた。
ある雑誌からは連載の申し込みがあったという。
10月の後半には、いくつかの新聞で報道された。
新聞報道のあとは、不登校の子を持つ人から相談をしたいという人も現れた。
しばらくしてからのことだが、水原さんがある日、町の本屋さんに行ったときだ。
彼女の写真が地方の雑誌の表紙になっているのを見つけて驚いたこともあった。
取材や相談の電話が重なったある時期、水原さんは自宅から“避難”することもあった。
18歳の彼女には、とても受け止められなかった事態だったと思う。
それでも耐えられた一つの理由は、マスコミは予想以上のしかたで迫ってくることを、2人に話しておいたからだと思う。
取材が集中する前の10月の中旬、横浜市で「不登校・中退者のための進路案内会」が開かれた。
私はここにあるかかわりで参加することになっていた。
水原さんと桜井さんに応援を頼み、同時に『ESCAPE』をその場で宣伝してみるといいと話した。
2人はやってきた。
その場で2人が目にしたのは、親たちの真剣で熱心な姿だった。
2人は、不登校やいじめを受けた体験者として、親たちの質問攻めにあっていた。
「どうしてここまでできるようになったのか?」という主旨の質問が、彼女たちには、意外で新鮮な感じのする質問だったように思う。
集会の主宰者側の人や学習塾で不登校を受け入れている人が2人を応援してくれて、そのこともまた2人には感動だった。
私は、彼女たちとは別の部屋に釘づけにされており、2人の当時の様子は全然見ていない。
帰りの電車のなかで2人から聞いたことだ。
この経験は、彼女たちに、自分が何ができるのか、それがどういう意味を持つのか、それが想像した以上のものであることを実感させた。
それも取材の波を切り抜けた力になったと思う。
ここでの『ESCAPE』準備号の宣伝効果と売上金で、それを継続していける見込みができた。
読者も生まれたし、原稿も集まるようになった。
翌年の春ごろには、水原さんの言い方によると、『ESCAPE』は同人誌を超えて、交流誌になっている、とのことだった。
私にはその違いはよくわからないが、雰囲気はわかる気がする。
水原さんはその後、相談に来る人に対して、お母さんと一緒に対応するようになった。
自宅へ来てもらうように考えていたが、彼女がその相談先の家へ訪ねていくようにもなった。
さらに、あるフリースクールにその子どもたちを連れていくようになった。
『ESCAPE』は2か月に一度のペースで発行していたが、5号をもって終わっている。
彼女たちはそれぞれが、次のステップに歩を進めたからだ、と言っておこう。
先日、ある場で久しぶりに水原さんに会った。
いまは、つながりのできたフリースクールに週1回、スタッフ側の一員として参加している。
桜井さんは、3、4か月ほど前だが、文芸系の同人誌のグループに加わり、文芸作品の創作に熱中しているとのことだった。
体験者から相談員へ
霜戸くんの話をしよう。
彼も「JR」をとおして加わった一員だ。
97年2月のことだ。
高校中退→高校再入学を経て、通信制大学生、19歳だ。
経歴のなかには拒食と引きこもりもあると聞いている。
「こみゆんとクラブ」(98年春になって「通信生・大検生の会」を改称)は、不登校情報センターの活動の一部である。
不登校情報センターは、別に進路合同相談会という催し物も行っている。
最初は97年3月。
翌年(98年)は1月から3月にかけて9か所で開いた。
その最初の相談会は千葉市の教育会館だった。(1月17日)。
不登校生、高校中退者で高校などの入学先や進路を探す人の相談会だ。
その会には不登校でまだ進路どころではない人もいるし、引きこもりの人の親もいる。
そういう人が相談できるコーナーを設け、心理や教育の専門相談を3人頼んでいた。
相談員には1人(または一組)の相談を終えると適当に小休止をしてもらうことになっていた。
会場は3階と$階に分かれている。
私がその相談コーナーから離れてしばらくして戻ってみると、なんと霜戸くんが相談員の席に座って、あるお母さんと話をしているではないか。
おーっ!大丈夫かな、と私は驚いたけれども、そのまま様子を見ることにした。
そのお母さんはやがてその場を離れる。霜戸くんは、ひきつづき次の組と話し合っている。
まー、いいかと思い、そこは事態のなりゆきに任せることにした。
しばらくして、「あー、すごく疲れました!」と霜戸くんが上気した様子で私のところへやってきた。
「どうだった?」と聞くと、「やーお母さんからいろんなことを聞かれました。……次から次へと聞いてくるんですよ。そのときどうしたとか、どう思ったとか……思い出せないこととか考えていなかったことが多くて……」。
どうやら霜戸くん自身の体験を質問攻めにされたみたいなのだ。
「いやー、親っていうのは、すごいエネルギーなんですね」というのが、彼の感想だった。
おもしろいというか参考になったというか。
それで、千葉につづく東京、浦和、横浜の会場では、専門相談員の相談コーナーとは別に、不登校、中退の体験者と話をするコーナーを設けることにした。
霜戸くんと風凪さんと、ほか2、3人がそこにたむろし、親たちと気楽に話ができる場をつくった。
受付や会場係とは別の役割ができているようで、そこにいるメンバーは少し活気づいているように見えた。
この経験は、体験者が相談者(?)になっていく、「こみゆんとクラブ」のメンバーから対応者(サポート役)が生まれる、その可能性に気づくきっかけになったものだ。
霜戸くんのあのときの上気した姿を思い出すと、うれしくなってくる。
彼の傑作話はほかにもあるが別の機会にしよう。
人生いつも模索なんだ
駒屋くんのことを書こう。
96年秋、個人情報誌「JR」をとおして会に入った。
中学時代にいじめにあい登校拒否。
定時制高校に入学したが中退。
引きこもりの時期があり、入会したころはアルバイトもしていた(26歳)。
駒屋くんは、口ベタでもの静かな青年。
ときたま手紙を書いてくれるが、そこには静かに自分の状態を観察し、将来を探す誠実な人間像が浮かんでくる。
人間としていい加減じゃない、正直に人生に向き合おうとしている、芯のある人間だ。
高校を出ていないために、職を変わらざるを得なかった彼の苦悩を考えると、こちらが苦しくなることがある。
今年の春、「こみゆんとクラブ」の交流会があり、出席した駒屋くんはあまり話をしないで帰ったことがある。
このとき通信制大学の卒業を目前にしていた香畑くんも参加していた。
2人は帰る方向が一緒なので、帰る途中で話をしたようだ。
少ししてから香畑くんに会ったとき、駒屋くんが私と話をしたがっていたと聞かされた。
それで駒屋くんと連絡をとってみた。
彼のような場合、何をどうするのか、ということを探し出すのは、そうたやすいことではない。
彼と似たような状態にある人と一緒に考えていくのが、オーソドックスな接近のしかたのような気がした。
彼の個別の状態を改善する方法や人はいるかもしれないが……。
駒屋くんは、個人情報誌、「JR」にメッセージを載せることになった。
「引きこもり、対人不安、不登校等で悩んでいる方、又経験のある方、男女年齢不問。連絡下さい。情報交換しましょう」というものだ。
4月から5月にかけて2、3回掲載された。
しばらくして聞いてみると、15、6人ぐらいから連絡があり、手紙を返したり、会ってみたりしているようだ。
男女半々で20代後半が多いという。
何か一つ動いてみると、よきにつけあしきにつけ様子が少しわかるものだ。
15、6人を対象に、手紙を書き続けるとか、個別に会って何かをし続けるのは、そう容易なことではない。
だれかと個人的な友人関係ができ、そこから一つの出口が見えてくれば、大成功ということかもしれないが、そうなるケースはそう多くはない。
それで8月になって、駒屋くんと会うことになった。
同じ席に、「通信制高校生の会」をつくりたい、という穀文くんも来ていた。
2人はテーマが違うわけだが、何かを始めようという点で一緒であった。
穀文くんは、なぜか友人関係が広く、一時は「文通魔みたい」と自称したこともある。
駒屋くんに、いま集まった人を中心に話のできる場を設けようとすすめてみた。
テーマを設けて、サークルみたいなものにし、会報みたいなものをつくらないと、一人ひとりには対応できないからだ。
駒屋くんが考えながら、話したことは、①年齢が25歳以上かな……、②引きこもりの経験があって……、③それに働く気持ちがあること……まー全部そろうということが条件ではないかもしれないけれど……。
そのとき、駒屋くんから引きこもりについて、こんな話を聞いた。
家から一歩も出られないのではなく、ときどきは出ていることがあっても、自分に出る必要はあるのに精神的に出られない状態があれば、自分では引きこもりだと意識する、ということだ。
外から見て「なんだ結構外出しているじゃないか、引きこもりじゃないよ」とは簡単に言えない気がした。
さてこの3つの条件を持つ会の名称を考えたとき、穀文くんから「那飾くんが人生模索中の会をつくりたい」と言っていたという話が出た。
駒屋くんはそれを聞いていて、「人生模索の会」とすることに決めた。
その第1回の会合が近づいている。
この場が、彼と集まってくる人に何かの手がかりの場となることを期待している。
通信制高校生のグループ
穀文くんが「通信制高校生の会」をつくりたいと初めて言ったのは3月13日の「こみゆんとクラブ」の交流会のときだと思う。
駒屋くんのきっかけになったのもこの会だったから、このときの交流会は案外分岐点だったかもしれない。
3月13日は十数名が参加したが、いま思い返すと話の中心になっていたのは大学生だったように思う。
その環境のなかで、穀文くんや駒屋くんの気持ちが動いたのだろう(?)。
5月に、鎌倉で「不登校・引きこもりの体験発表と交流会」を開いた。
穀文くんとその年長の友人で通信制高校生の田入地(たにゅうち)くんが、自分の体験を話した。
田入地くんは7年の引きこもりがあるので、なかなかの内容がある。
母親が5、6人。どういう経路で会を作ったのかわからないけれども若者が3人。
全部で12、3人の参加者だった。
この席でも穀文くんは「通信制高校生の会」づくりを口にしていた。
それで、駒屋くんと同じ8月に会い、「通信制高校の会」の準備をしたのだった。
10月10日、その初会合を開いた。
神奈川県立湘南高校が穀文くんと知人の17歳の女の子、阿木さん。
平沼高校の2人は、お互いに知らない。
18歳の尾樽さんと19歳の八田くんだ。
埼玉県立大宮中央高校の卒業生大戸さんを加えて5人。
もう2人参加するかもしれなかったが、結局5人だった。
女子高校生は、雰囲気から友人だろうと思って聞いたら、さっき駅の待ち合わせのとき初めて会ったばかりだという。
1時間あまり、いろんなことを話したあと、カラオケに出かけることになった。
そこに2時間いた。
阿木さんは歌がうまい。
穀文くんもなかなかのものだ。
阿木さんは横浜駅前でチラシを配っているところを、声優プロダクションの人にスカウトされ、いまはそのプロダクションに属している。
別れ際、駅のところで阿木さんに「レコード出したら教えてよ」と言うと、「来年2月に出すことになっているんです。東芝EMIです」と言う。
尾樽さんが「わーっ、住んでる世界が違ってくる!」というのを後ろで聞きながら、離れた。
こりゃーファンクラブでもつくるかな、と思いつつ。
「こみゆんとクラブ」、いや不登校情報センターの周りには、いろいろな若者たちが、何かを求めて、何かができるのではないかと近づいてくる。
ここに書いた人以外にもいくつかのグループというかテーマを持った人がいる。
これとは別に、サポートをしたい、ボランティアみたいな、家庭教師みたいな……ことをしようとして集まってくる若者もいる。
それらの人を受け入れるだけのビジョン、場所、資金、材料……が私にはない。
それぞれが自然成長のように、まどろっこしく動いているだけだ。
この前、「こみゆんとクラブ」の会報「Friends-Net新聞」(もう1年以上前からこの名称になった)を送った人は240人を超えた。
先日は、23歳で中学校を卒業していない青年が来た。
17歳で高校2年の夏から全然学校に行っていない女子高校生からも電話が入った。
超進学校で彼女の成績はトップ。
学校に来なくても○○大学を受験すれば高校卒業証書は出せるから……と言われている。
事実彼女は、出席日数不足なのに高校三年に進級している。
そういうことがいやで学校に行きたくないと言っている。
こういう人たちに本当は何が必要であるのか、何ができるのかはわからない。
だけど「こみゆんとクラブ」は広がるだろう。
それなりの発展もするだろう。
ただ、それでいいのかは私には本当はわからない。
無神論者にも祈りが必要のようだ。