青春学校・北九州市立穴生中学校夜間学級
青春学校・北九州市立穴生中学校夜間学級
柳井 美枝(やないよしえ)(公社)福岡県人権研究所 特命研究員
青春学校のハルモニ~朴パクスンナム順南さんの思い出~
青春学校は、北九州市で行われている自主夜間中学で、正式には穴生(あのお)中学校夜間学級といいます。
毎週月・火曜を穴生小学校で、木曜は穴生市民センターで行われており、木曜のみを「青春学校」と呼んでいます。
学習者は日本人や在日コリアンの高齢者などで、日本語の読み書きを中心に、それぞれのニーズに合わせた学習をしています。
開校のきっかけは、山田洋次監督の映画『学校』で舞台となった東京の公立夜間中学の存在でした。
国籍を問わず何歳からでも学べるという公立夜間中学は、九州に一校も無く、そのことに問題意識を持った大学教員たちと一緒に、穴生市民センターで活動を始めました。
青春学校には「青春を取り戻す学校」という意味が込められており、本年は開校から25周年を迎えます。
開校時からの学習者に当時73歳の朴順南(仮名)さんがいました。
朴さんは在日コリアン1世で、23歳の時に関門トンネル工事に従事していた夫を追い、朝鮮半島から北九州に来ました。
4人の子をもうけましたが、35歳で夫を亡くし、それからは朴さん一人で子どもたちを育ててきたそうです。
「日雇い、野菜売り、できることは何でもしたね。食べる物がない日が何度もあったよ。
子どもにご飯を食べさせてあげられないことほど辛いことはなかったね」と笑いながら語っていました。
朴さんに読み書きの体験を尋ねると「一度も学校には行ったことがないよ。
子どもの時に近所の人から一回だけハングルを教えてもらったことがある。
かぎゃ、こぎょ、日本語のあいうえお、みたいなの。嬉しかったね。
でも、ハングルを書いた紙を家に持って帰ると、おじいさんが、『女に字はいらん』と言って紙をびりびりと破ってしもたんよ。
それからは一度も字の勉強をしたことがないよ。結婚して日本に来ても仕事して子どもを育てないけんし、勉強する暇がどこにあるかね」。
青春学校開講直前のことです。私は朴さんと一緒に大阪の夜間中学を訪ねたことがあります。
大阪の夜間中学では、朴さんのように女性であるために幼少期に文字を学ぶ機会の無かった、多くの70代80代のハルモニ(おばあさん)たちが学んでいました。
私たちが教室へ入ると生徒さんが朴さんに鉛筆を貸そうとしたのですが、朴さんは手を振って断りました。
後にその理由を聞くと「鉛筆の持ち方も分からんで恥ずかしいから断ったよ」と語っていました。
大阪訪問から一週間後、母が「朴さん家ですごい物を見た」と言うので、
朴さん宅へ行くとテーブルの上に、お孫さんが使っていたという何冊かのノートと鉛筆が置かれていました。
母に促されてノートを開いてみると、そこには「朴順南」という名前だけが余白を埋め尽くして、びっしりと書かれていたのです。
朴さんは「大阪の学校で鉛筆も握りきらんで恥ずかしかったよ。
今まで字を覚えようなんて思ったこともなかったけど、大阪行って自分より歳の多い人が勉強しよるやろ。
だから家に帰ってすぐ薬の袋を見て初めて自分の名前を書いてみたんよ。
鉛筆の握り方が分からんから孫から教えてもらってね。
あの日から何回も書くけど、うまく書けんね」と、はにかみながら言ったのです。
驚きました。帰宅した日に生まれて初めて鉛筆を握り、薬袋に書かれた自分の名前を見て何日もノートに書き綴っていたのです。
「初めて字を書いた時、あーこれがうちの名前かなあって思ったよ。嬉しかったねえ」
と言って、はにかむ73歳のハルモニの姿を目にし、私は感動のあまりに声も出せませんでした。
青春学校には多くのドラマがあります。
朴さんはすでに鬼籍に入られましたが、晩年私に「青春学校のお陰で幸せだったよ」と言ってくれました。
映画『学校』の中で「幸せって何かな」「う~ん」「それを探すのが本当の勉強じゃないかな」というシーンがあります。
朴さんにとっての幸せとは、勉強とは何だったのでしょうか。
今ではそれを尋ねることもできませんが、「幸せだったよ」という言葉を残してくれたことが、私にとっての最大の喜びです。
〔広報だざいふ 平成31年1月1日号〕