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違和感を感じた“死”への感想
〔2010年07月07日〕
私は「生きるのも死ぬのも本人の自由」といった主旨の発言をしたことになっています。
私がそれを聞いた第一印象は、「なるほどそう聞こえてしまうのか」というものです。
以前に「Aにするのか、Bにするのか、どちらかに決めていただきたい」と中立的な第三者として話したところ
「AでもBでもどっちでもいいと言っている」とされたのを思い出しました。
後者の言い方は投げやりの雰囲気に伝えられて、嫌な思いをしたものですが、少し似ています。
心の貧しさを感じて、自分はそういう受けとめ方はしないように心がけているつもりです。
私は「生きるのも死ぬのも本人の自由」といった主旨の発言をしたことになっています。
数年前のことであり、どのように言ったのかの記憶はありません。
その限りにおいては否定も肯定もできません。
“主旨”というのは、そのままの言葉ではなく中心はそこにあると受け取った側のまとめ方です。
発言者がどんな意識でどんな気分でであったのかとともに、聞くほうの意識や気分も反映しているのです。
私は否定も肯定も出来ないのですが、違和感があります。
それは生きることと死ぬことに関するいつもの感覚、考え方と「生きるのも死ぬのも本人の自由」には落差があるからです。
聞いた方の言葉を参考に考えれば「希望を見失って、死の決心をした」というようなことを、
“死んでも仕様がない”と言った方向にもとれる「生きるのも死ぬのも本人の自由」と聞き取ったのではないか。
私の気持ちは残念感なのに、違った方向に広げられている。そんな気分です。
それが「AでもBでもどっちでもいいと言っている」と言われたときの違和感に共通しています。
そこで次回は「生きることと死ぬことに関するいつもの感覚、考え方」を紹介します。
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