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社会的引きこもりの定義(暫定)
〔2010年10月26日〕 「社会的引きこもり」を新しく、定義しなおしてみたくなっています。いくつかの理由はあるのですが、まずはどんな方向のものか試作を見ていただきましょう。
(1)「社会経済が大きく転換しつつある時代、工業社会から情報社会に移行する時期において、現実の生活現象に生じる混乱を回避しようと、心身の柔軟な世代が対応する方法の一つである」
かなり抽象的ですが、私の実感でもあります。引きこもりになる若者に対比して、就業し社会に関わっている若者がそれほどいい思いをしているのか疑問に思うほどです。 そういう社会状況が過ぎ去るのを待ってから“社会に船出”をしようとしているのではないか。そんなことを引きこもる若者に感じることがあります。もちろんその結果が上手くいくと保障されているわけではありません。時代の変遷期の動揺や手荒さに打撃を受けるよりもその方がまだましとでも感じているのではないか? (2)「日常の細かな変化に適応できている人には表面化しづらいけれども、そういう人は反面において社会の深層の変化を感じとれないのではないか。表面的な変化には適応しづらい人の中にむしろ本物の変化を感じとる力が宿っているのではないか。あるいは日常的な変化に上手く適応しづらいタイプの人の中に社会の深層の変化を感じとる能力が潜んでいるのではないか」 引きこもる人には、神経質なタイプとともに、内向的なタイプの人が多いように思います。過敏である人か鈍感である人です。両者はある意味で似ているし、両方併せ持っている人もいます。過敏性と鈍感性を併せ持つというのは論理矛盾のようですが、人間の実在としてはありふれたことです。深く感じ取っているから平静に表現するのが可能な人です。 (3)「――」まだ上手く表現できない面が別にあります。 このような定義は引きこもりを非・否定的にとらえてみるとどうなるのかという思いからのものです。それは必要性からいっても、実感からいっても根拠があると感じています。 社会状況に対して、引きこもり的な対応が正解であるとか、それが上手くいく方法であるというわけではありません。上手くいくこともあるし、上手くいかないこともある。人間の成長発達の面から重大なタイミングを失うこともある。 そういう面は認めるけれどもそういう面ばかりを見ていると引きこもりが提示している問題を見落とし、その現象を否定的に見、治療する、社会への適応を迫る…ことに終始することになります。引きこもりへの対応が全体として上手くいかない、表面的対応にとどまり大きな内容をとらえていないのはこのためではないかと考えるからです。 引きこもりの人がもつ潜在的な力を引き出すことが、引きこもりへの対応の中心でなければ本物ではない。そうするとそこに潜む肯定的・積極的な要素を見ていくことになる。引きこもりとは何かをもう一度考え直してみようと、私なりの定義をしているところです。 不登校情報センターは、小さな取り組みです。その取り組みを続ける過程である状態にたどりつけそうなところに来ました。ここまでたどって来た道を振り返ると、引きこもりとは世間でいわれているものとは違うものがあります。まだ上手くはいえませんが、実感に近いところで表わそうと試みました。