Center:“死の周辺”の表現と支援
“死と周辺”の表現と支援
〔2010年07月09日〕 今回は“死と周辺”の表現と支援に関わることです。 私は彼ら彼女らとの普通の会話の中で「死にたい」と聞く機会はむしろ少ないです。話すほうも直接的な言葉はためらいがあるのでしょう。 引きこもり経験者から聞く言葉はもっと微妙でもっと多様です。生きたくない、生まれてこなければよかった、消えたい、無になりたい、死ぬつもりではないが、死にたいとは思はないが、行けるところまでいければいい…。このようにニュアンスは異なり、その人のそのときの気持ちを表しています。 それらの実態は互いに近いのかもしれませんが、言葉にするのは意識を通したものです。感覚、感情、意識は一人の中ではつながり、しかし同一ではありません。意識は時と場合によっては操作できるし、言葉になるときは操作されている可能性を考慮すべきです。 しかし言葉以外の表現により、その人の感情、感覚の実態をとらえることは、期待されるけれどもときには恣意的になります。多くの場面に遭遇し、またその人の日常的な様子を知ることで、言葉や表情の背後にある実態を了解できる可能性はあると思います。それでも絶対ではなく、そのあたりが人間の理解できる限界でしょう。 こういう気持ち、状態の引きこもり経験者に「生きようとする」力を育てたいと思います。それはたとえば希望です。意欲であり、欲望です。生きる気分が下がるときは希望がなくなり、意欲とエネルギーの低下を招きます。それはいろんなレベル、分野があります。 共通するのは、①自分自身を肯定していく経験を重ね、感覚的にこれでもいいと思えるようになることです。自分への安心感や自信という言葉で表わせるものです。②それに続いて対人関係ができることです。自己への安定感がないと対人関係づくりの対象である相手に不安感、困惑を感じさせますから、自己への安定感を伸ばすのは対人関係づくりに先行するし、また平行もします。 ③最小限の社会性と、社会に生きていくその人独自の要素(特技、技術、経験など)です。世間的には③が強調されていますが、引きこもり経験者が直面している主な困難は①②にあると指摘しなくてはなりません。
生死の感覚、自己への安定感、生きる意欲、社会への前向きの姿勢はおおよそこのようにつながっていると理解しています。支援内容は、技術・知識の前の自己否定感を乗り越えることです。 私はそのように理解していますので、中心対応策は対人関係づくりにおける修業です。単純に楽しいのではなく、むしろ苦しいものです。引きこもり経験者ならそれが苦しいことは感覚的にすぐにわかるでしょう。その場から逃がれたい、独りでいたい…という葛藤を伴う作業、それが修業です。 青年期以降(個人差はありますが30歳近くまで)のこの作業は大きな困難と向き合うことです。思春期の不登校・引きこもりへの支援と比べるとはるかに大変で、本質的な支援をより厳密に求められます。ごまかしが効かないといっていいでしょう。 本人の中にある個人的特性を本人が自ら引き出すのです。下手な手助けは邪魔になります。支援者としての私の失敗は、下手な手助けに限らず多くあります。それを責められるのは仕方がないのですが、かといって成功事例だけが並ぶことはありません。支援者もまた、我慢と粘り、工夫と試行錯誤を求められ、それが延々と続きます。 生死に関すること、それが支援に関してどう表れるかのを書いたつもりです。次回は自殺と自殺未遂に関係したことを書きます。