Center:2008年8月ー引きこもり生活者への訪問活動(1)
目次 |
引きこもり生活者への訪問活動(その1)
~20代後半以上の人への方法を例示する~
〔『ひきコミ』2008年9月号=第60号に掲載〕
私は、数年前から20代後半以上や30代の引きこもり生活になっている人のところに訪問を重ねてきました。
また、訪問サポート部トカネットの主に十代の人たちへの訪問活動の様子もいろいろな機会にきいてきました。
それらをふまえて、訪問活動の方法とその考え方についてやや系統立てて書いてみようと思います。
最近、ある若い研究者から引きこもりに関する出版物を発行するに当たり、そのゲラ刷りを見せてもらいました(『「ひきこもり」への社会学的アプローチ』ミネルヴァ書房)。
その論文で訪問活動にも触れていたのですが、方法論がまだ確立していない旨の指摘がありました。
訪問活動をつづける団体においては、それぞれの方式があると考えていた私には少し意外でした。
それで、私のばあいの方法論を示そうと考えたのがこれを書こうとした1つの動機です。
もう1つは、引きこもり生活をしている当事者の意思に関係なく(あるいは意志に反して)自宅からつれ出す方法が注目されたり、ときには事件に結びついたりするのを聞いてきました。
これも一部のことと思っていたのですが、親側の気持ちのなかには、手づまりや無策のなかでそういう方法を是認していくかもしれない、それは拙いとも思ってきました。
そうでない方法を私が提示してみたところで、何ほどのものでもないという気持ちはありますが、そんなやり方ではない別の型を示しておくのも意味はあると思います。
ここでは、私の訪問活動の実際に即して、とくに20代後半以上の引きこもり生活者への訪問活動、それを支える考え方を示してみます。年齢の意味はそれなりに重要です。
〔1〕 自由選択方式の提示
(1)親との面談
訪問に先立ち、家族から事情をききます。年齢、性別、家族構成という基本的なこと、引きこもりの期間、その間の生活状況、家族との関係、よくしていること、子どものころの出来事、友人関係、学校時代の様子など多岐に渡ります。自室では「パソコンかテレビ」という以上の内容はわからないことも多いのですが、わかる範囲できいていきます。
アルバイトの経験の有無とか、子どものころの体験は意外に重要な気がします。
母親からの話が中心ですが、できれば父親の意見も聞くようにします。
こういう話をききながら、親として何を望むのかをききます。「自立してほしい」というしごく当たり前の答えが多いです。
手順になると、親としていろいろやってきたけどうまくいかない、何をどうすればいいのか・・・と望むことはあっても、その過程が見つからないでいる人がほとんどです。
それで、この「自立までの過程」の引きこもり状態からの最初の一歩をどうするのかを考えてもらうことになります。
不登校情報センターには引きこもり経験者のフリースペースないしワークスペース的な場はありますが、今回テーマにするのは訪問です。そこに的を当てて考えることになります。
(2)訪問の提示のしかた
7~8年も前のことです。訪問サポート・トカネットで、ある20代の人に訪問することになりました。
それを当事者に伝えたところ、その人は親戚筋の事業所で働くようになった例がありました。
私にはこの例は何か暗示的であったのですが、トカネットはそれとは別にある方法を生み出していました。
家族との話し合いで、引きこもっている20歳以上の人に数か条の選択肢を示し、そこから自分でどう進むのかを選んで決めさせるという段取りのある方法です。
私はこれをやや定式化しました。数項目の選択肢を書いて、当人に手渡したり、ドアに張り出して伝えるのです。
これをかりに自由選択方式とよぶことにします。訪問がこの中に1項目として入っているのです。
(3)自由選択方式の内容・項目
内容は、家族との話し合いのなかで、親に考えてもらいます。どんな内容なのか列挙してみます。
1. 働く方向に関すること―
アルバイト先を探す・面接を受ける・履歴書を送る。週2回の比較的雇用されやすい所で働く。年末年始や夏休みなどに短期集中で働く経験をする。
2. 技術収得・資格取得―
経理学校に行き資格をとる。パソコン教室(自治体など主催)に行きパソコンを使えるように習う。
3. 家族から離れて暮らす―
一人暮らしをするためアパートを借りる(当面の資金は援助する)、宿泊施設(若者自立塾など)への入所を勧める。
4. 誰かに訪問を受ける―
私が訪問することを予定するときは、「不登校情報センターの人に来てもらい話し合う」ということになります。
5. 他の支援団体の情報―
不登校情報センターは、「支援者求む!」の形で、当事者の様子を「SOS」の形で書き、支援団体に送ってその団体ができる支援のしかたを書いてもらっています。
それも、この「自由選択方式の提示」に加えることがあります。
6. もう一つは空白事項です。これは引きこもり生活者自身がこうする、こうしたいと答える方法です。
最後の項目が生かされた例はありませんが、前記の親戚筋の事務所で働き始めた人は、実際はこの例に当たります。
これらの提示は、その家族の状況、当事者の状態によって少しずつ実態により近い表現にしたものになります。
その結果、いちばん多いのが「訪問を受ける」になるのです。自分からの外出ではなく、おそらく他の事項にくらべて心理的な抵抗がいちばん少ないからだと考えます。
そうはいっても、「意識して訪問してほしい」と選ぶことより、消去法によってそれが残ったばあいが多いと思います。
もう1つは、期限切れです。この「自由選択方式の提示」への返事が期限内になければ「誰かの訪問を受ける」という前提があります。
これが「期限切れ」による訪問の開始です。
(4)「訪問に同意」も各種の違い
いまのところ、この手順による訪問に、当事者から表だって拒否を示されたことはありません。
おそらく当人と家族のそれまでのある程度のかかわりのなかで、当事者にもそれを強く拒むだけのものがなかったのではないかと思います。
だからといって20代後半以上の人にとっては、訪問は一般には喜んで受け入れられているとはいえない、と考えられます。
それに対応する手順を、経験を重ねて少しずつ組み立ててきたことになります。
提示を受けた後の当事者と家族の様子によって、受けとめ方の程度は少しは予測できます。
私の気持ちは、この状態のなかでいかに当事者の気持ちを楽にしていくのかという方向になります。
もともと気分的に追い込まれた条件におかれるわけですから、それを加速させないようにしたいという意味です。
一方で、ある割合の人は外から手が入ってきた、外部の世界との接点ができるのかもしれない、問題はどんな人が来るのかによるという一応前向きな人もいます。
反対にだれとも絶対に会わないつもりだという人も予測できるし、これらは親から様子をきくなかで少しは想像できることです。
「訪問の手助けを待っているはず」という一方的な姿勢で行くのは横暴であろうと思います。
まして突然に数人で押しかけるようにして、有無を言わせず当事者を連れ出し(たとえ親の同意があったとしても)、ある施設に入れるやり方は、緩やかな虐待であり、本ものの虐待との間に区別はなく、精神的に自分を維持できない人にとっては暴力に当たるという印象を受けます。
〔2〕 まず訪問者が観察される
(1)部屋の戸を開ける
訪ねていった私は、当事者が部屋にいて仮に外から戸を開けられる状態でも、内側にいる当事者の同意がなければ自分からは開けないようにしています。
内側から開けられるか、「どうぞ」とかの合図があってから私が戸を開けるかになります。
それは、当事者にとってこの訪問がどのようなもの(どのように受けとめられ、感じられているのか)を、あらためて確認する機会にもなります。
既に見たように、訪問の開始は、「自由選択方式の提示」の回答の期限切れによるのか、他の方法を消去して残ったのが訪問であるけれども歓迎度はマイナス状態なのか、
それとも多少は何かを期待しているのか、その最初の判断の機会が、この部屋の戸をあけるところに表われるのです。
(2)訪問者が観察される期間
それは訪問する私にとっての判断の機会ですが、もっと重大な意味があります。それは引きこもり生活をしている人にとって、訪ねて来た人はどういう人なのかの判断の機会にもなるのです。
「訪問活動」というのに限定して考えてみても、この方がむしろ大きな役割というか意味を持ちます。
訪問を受ける引きこもり生活者にとって、「どんな人が訪ねて来るのか」はきわめて重大です。
理解しそうな人であればいいけれども、理解するしないに関係なく、自分を外に連れ出すような人とは会いたくもないからです。
当事者が訪ねてくる人を観察するのはこの点です。
すなわち「私を<自分の意志に反して>動かそうとする人なのか、私の意志を確かめてから何かをする人なのか」です。
部屋の開ける開けないを当事者の意志によるのは、まずここに関係してきます。
〔3〕 会うこと、会えないことの関連事項
(1) 避難もまた自由意志の表現
私は訪問先ではほとんどの人と会っているのですが、訪問の初日に会ったというわけではありません。
その日は、「会えるかもしれない、会えないかもしれない。会えればいいけど・・・」という気持ちで向かいます。
約束の時間になって、当事者が家から避難するというのも容認というか、ときには推奨してもいいように思います。
自宅からの避難も考えようによっては「一つの外出」であり、その人の引きこもりの程度によっては肯定すべき内容があると思います。
その人の状態や環境など多くの要素が関係することを、何かの一点だけで判断するのは偏ったものになる気がします。
「当事者の状態」にとって、それはどういう意味をもつのかを基準に考えてみるべきであって「支援者の方針」とか「家族の要請」による基準はそれに比べれば相対的に低いものだと考えます。
いろいろな形で際限なく出てくるさまざまなことのなかで、最も優先的に考えられなくてはならないのは、当事者の気持ち、感情が和らげられること、それが長い目で見たばあいその人の成長にとって有効性が高いのです。
いろんなことを制約したり、ある出口を閉ざすことで別の出口に導くという方法は、広い意味での操作です。
それはこれまでされてきたことの形を変えたくり返しです。最大限さけたい種類のことです。
その意味で、訪問して会えない(当事者が会おうとしない)、訪問したときに自宅にいないことも、一つの自由意志や自然な感情表現が行動になったものと認めていいと思います。
私が訪ねて行って、少なくとも何回目かに会えるのは、このような姿勢が姿勢として、実際の段取りや手順が当人の意志を尊重する傾向にあることをそれなりに伝えていくからだと考えています。
(2)会えなかった30代女性のばあい
私が訪問して会えなかったという人は1人です。30代の女性でした。
ある日その人の父親が尋ねてきて「一緒に家に来て話してほしい」と頼まれて訪ねたのです。
自宅に同行しながらの話すなかで父親の発想が粗雑な感じで「どこかの施設に入れてほしい」というのです。
何の準備もないので、そのときの私の感覚は何か拙いことでも発生しているのではないかという気持ちで出かけたのでした。
父親と一緒に家に着くとその女性は自室にいるようです。父親が戸を開けようとするのを制して、私はドアの前で声をかけ、内側から開けるのを待ちました。
しかし戸は開かず、私は別の部屋で父親から話を落ち着いて聞き、そして帰ったのです。
この日の訪問目的は、「何か拙いことが起きてはいないのか」を確認するためのものでした。
(3) ハプニング役割の相対的低下
「会えた」といってもいろいろな例があります。自宅を訪ねて行ったけれども、当事者と会ったのは自宅外であったこともあります。
ファーストフードであったり、近所の公園のようなところであったり。家に入ったら台所兼居間のようなところに当事者が会うつもりかどうかわからないまま何かを食べていて、顔を会わせたところで目礼をして自室に入った人もいます。
当事者には訪問時間が知らされていなくて、自宅に着いたとたん、玄関近くの部屋の戸を家族が開けて私と顔を合わすこともありました。
当事者の部屋の前まで行ったら部屋のドアが開けっぱなしになっていて、布団の中に横になっている姿をみたこともあります。
私は敷居の外に座ってそのまま声をかけ話をしました。
駅から家族の車に乗ったところ、予定よりもかなり早く着いて庭にいた当事者と会い、そのまま話したこともありました。
これらの意思確認をしていない面会は、全体としてあまりうまくいきません。
親の方では、私と会えば漠然と何かが変わると期待しているところがあるのでしょうが、当事者が自分で考え判断できる機会を奪われているように思います。
ハプニングとは予定していない、自然なことなので訪問者も当事者も生の姿が出やすいものです。
私は、それは全体的に都合のよい条件が生まれると考えてきました。
しかし、訪問の型ができてくると、ハプニングに頼って自然状態を生み出さなくても、徐々に楽な方法をつくれるようになったと思っています。
(4)当事者の意見を尊重する
その初めの日に当事者が部屋の戸を開けない(会わない)ときは、私は「今日は帰ります」と言って帰ります。
そのまま親と話をすることもありますし、ほとんど何も話さないで帰ることもあります。
親と話さないですぐに帰るのは、たぶん作為性を消すためであるように思います。できるだけ自然状態でやりとりをしたいのです。
「帰ります」と言った後で、親と話してもあまり支障がなさそうと思えば話しますし、長く話していれば拙いと思えばすぐに帰ります。
こんなときでも姿を見せない当事者が主人公であり、その人に作為性、親とのやりとりの伝達は知られない方がよい気がしているからでしょう。
その後、当事者と会える、継続して会えるようになるのは「自分の意志を無視して」何かをしようとする人ではないと伝わるからだと思います。
おそらく自宅で訪ねてくる人の様子をうかがっていれば、このことは自室の開け方だけでなく、いろいろな雰囲気として当事者には相当の判断材料は与えられているのです。
私にはそうとしか考えられないくらいのものです。
当人のこの判断の正確さは、本人の状態に左右されますが、一般論としては、かなり高いと思います。
(5)「作為」にも違いのある
もちろん異論はあると思います。そもそも、当人が「来て欲しい」と言っているのを確かめないで行くこと自体が、作為以外の何ものでもないと言う人もいるでしょう。
仮に当事者が「来てほしい」と言っていたとしても、そこに作為がないなんておかしいと考えることもできるでしょう。
それは認めてもいいです。しかし、手順からは本人の意志を完全に無視の形はとってはいないのです。
ここの中心は、その条件のなかで「本人の意思をどう尊重するのか」という点です。
もともと作為あって訪問するのだから、あとはずっとその姿勢で行けばいいとはしていないし、そうはならないのです。
初めから本人の意志を十分に確かめたものではないから、全部ダメとはならないでしょう。会って話すなかで、気持ちは変わるからです。
逆に、まどろっこしい対応方法であって、効果的でないという意見もあると思います。
私も実際には訪問先のすべてでこのような経過をとっているのではありません。
何がそれを変えるのかは、訪問を受けた当事者です。
その人がどういう反応、言動を示すのかによるのです。それを受けとめていけば、この過程(そしてこの後につづく過程)も跳び越えていきます。
まどろっこしいとか丁寧であるとかこの判断は、当事者の感覚であろうと思います。それは後でより具体的に示すことになります。
もう1つは、これは説得ではありません。ある意志があって、自由に選択できそれに沿って行動する人には説得はありうると思います。
しかし、自分の意志がうまく成り立たない、それ以前に人との関係の感覚があわないというレベルの人が引きこもり生活にいる大部分です。
ここへの働きかけは、信頼感の回復とか、自分は人間として生きていけるだろうかという不安感の軽減になると思っています。
引きこもり生活者への訪問活動(その1)=2008年8月
引きこもり生活者への訪問活動(その2)=2008年10月
引きこもり生活者への訪問活動(その3)=2008年12月
引きこもり生活者への訪問活動(その4)=2009年1月