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ロゴス的なパトスの把握
〔2011年3月31日〕
2006-07年に書いた「無神論者の祈り」ノートの11件を、早々に掲載してしまいました。
「無神論者の祈り」というテーマ、問題意識がそのころとは少し違うから先に片づけました。
いまとは違う問題意識のものが不自然に出てくるよりも、このような時期をへて続く作業をしています。
このネット上の「無神論者の祈り」の最大の目的は、認識論になるでしょう。
シンクロニシティ(共時性)を認識論にできるのか。ユングはどのように迫ったのか。まだユングを全然知らないなかでの作業です。
ユングという文献によらない取り組みをするしかありません。
私の場合は、そこにかわって日本の精神文化への関心が加わります。
梅原猛は「パトス的なパトスの把握、直観的な感情の把握をロゴス的なパトスの把握、概念的な感情の把握に進めることは容易ではない」
(梅原猛「壬生忠岑『和歌体十種』について」『美と宗教の発見』171-172ページ、講談社文庫、1976年)
として、たぶん私に似た問題意識をはるか昔に追跡しています。
この認識の仕方は、共時性とは外形は違うけれども、共通のルーツを感じさせるのです。たぶん共通のルーツに近づくでしょう。
梅原猛はどこかで、“日本人の感情的表現の緻密さは、西洋的な論理的表現に劣らないほど”と言っています。
この感情表現の方法は和歌や能などの芸術美だけではなく、宗教性においても、とりわけ8世紀初めの“宗教改革”以前の、原始的で素朴な神道のなかにあり、
政治的・歴史的な条件のなかで姿形はかえながら、日本人の精神生活にいまなお続くと考えるのです。
このような論理的表現とは別の認識方法は、地球上の他の地域でも生まれると思いますが、私に可能なのは日本の精神文化を対象にすることです。
もう一つ、私には引きこもり経験者に囲まれて生活をしている環境があります。
彼ら彼女らの言葉を含むけれども言葉以外の振る舞いや反応もまた、豊富な非言語的表現を示してくれます。
これはユングが求めたことにも、日本の精神文化にも共通する要素があると確信できます。