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体験記・逸見ゆたか・精神的ひきこもり脱出記(4)

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精神的引きこもり脱出記(その4)

逸見ゆたか

転機以降、読書の方法は一変

それまでの読書は早く言えば、やみくもな向上心から当時の教養を高めるためのブランド品とも言える読書をしていましたが、今度は180度方針転換し、私自身の内側からの要求が出発点となりました。  まず、登場人物の人物像に関心を寄せました。彼らの喜び、悲しみ、生きがい、こだわりなどを注意深く読み取っていきます。とはいえ、もちろん本の筋も楽しみながらで、苦痛な本は良書といえども避けました。今までそういう本は山ほど読んできたからです。  年齢も職業も地位もさまざまな人々を対象としました。慾の深い人も、権力欲に凝り固まった人も、目を背けないできちんと見ました。敬遠していた日本文学も私小説も理解できるようになってきました。  ちょうど地球を訪れた宇宙人が、この球体上の人類とは何ものであるか、と調べるに似ていたかもしれません。  この当時の私に、意外な観点からヒントや新しい世界を開いてくれた本がたくさんありますが、そのうちの数冊をここに述べておきます。 平井和正の「幻魔大戦」と新約聖書の中のイエス  この本は二十年以上も前、大ベストセラーになった本で、一種の救世主物語です。若い人々が、あのオウムへ入信するきっかけにもなったと言われ、多大な影響を与えた本です。  が、私には別の面で、とても印象深くありがたい本なのです。というのは、それまでなかなか理解できなかったキリスト教のイエスという人物像を見直させてくれたことと、本に呑みこまれるような読書の姿勢を、一歩引いた姿勢で読めるように私を変えてくれた本なのです。  東丈(あずま、じょう)という主人公は、高校生の美少年です。我の強い偏狭な彼が、ある時から超能力に目覚め、地球の危機を救う人々のリーダーにふさわしく人格的にも飛躍的に成長してゆきます。  地球をねらう幻魔に対抗すべく彼は「幻研」という組織を結成します。幻魔に対抗できるのは超能力しかないのです。従来の武器はどんな強力なものでも全然効かないどころか、撃った人間に跳ね返ってくるという厄介な怪物なのです。  丈の周辺には、彼のカリスマ的な人格の魅力や、驚くべき超能力に惹き付けられた信者やフアンが増え、一種の社会現象にまでなってゆきます。しかし、組織が大きくなるにつれ、信者間の葛藤が生まれ、また幻魔との闘いも火蓋が切られ、すさまじい超能力戦が開始されました。  迫力のある描写や物語の展開に、私もすっかり魅せられ読みふけっていましたが、途中でふと、何となく詰まらない、と思うようになりました。  信者同士の人間的な葛藤やもつれが、えんえんと続くのにも嫌気がさしましたが、主人公が誉めそやされ崇められる割には、演説も人々への説得も理屈っぽく魅力が少しもないのです。  考えてみたら、大勢の人々の尊崇をあつめる人物像を造形し、描くということは、作家の大変な力量がいるはずです。この作家はこの難題の前にたじろぎ始めたかもしれません(結局、この小説は、実に中途半端に中断してしまいましたが)。  そう言えば、キングオブキングと言われる救世主イエスはどんな言動をし、描かれ方をしているのだろう。彼の言行は2千年という年月の中で消滅せず、それどころかイエスを、史上最高のコピーライターとさえ言う人がいます。彼は商品の売込みではなく、人を動かす深くて美しい言葉の数々を残しているというのです。 私はこれまで漫然と読んでいた聖書を、そんな観点から読み直すことにしました。  私は手元にある聖書を取り出し、イエスの言動や説教を調べ始めました。  聖書は、解説書抜きにはとても読み解けるものではありません。いつの間にか私のもとに、十冊近くもいろんな人が書いた聖書物語が集まっていました。しかし、どうもぴたりと来ません。どの人も、イエスを神格化し、あがめ奉って書いてあるのです。 私は、自分の目でイエスを一人の人間として調べることにした。   2千年前、ガリラヤ湖のほとりのある部落に生まれた大工の子の一青年が、28歳で布教を始め、30歳で処刑されるまでどんな行動をし、言葉を残したか。  同じ部落の一人の青年、という感覚で読み始めました。  彼はどんな風貌をしていただろう。大工さんだからきっと筋骨たくましかっただろうか。そういえば彼には女性のフアンや信奉者がたくさんいた。きっといい男だったのかもしれません。  彼が人々に語った言葉は、日常見たり体験した話ばかりで、パンをこねる話は、母親のこねる風景からだったと思うし、ブドウ畑の手入れや、その収穫の情景からとった話も多い。抽象論で語ることは、一部を除いて極力避けています。どの話も短く凝縮した宝石のように美しい。私は感嘆しました。  私はクリスチャンではありません。ただこの青年が説いた深い言葉の数々は、私の心の中核の構成要素に、しっかり組み込まれています。 「ワンパクニコラ」  ある日、ニコラ少年は、学校からの帰り道一人屈託していました。今日先生から渡された成績表はひどい代物だ。…パパもママも怒るだろうな…おしりをぶたれるかもしれない、いつもはぴょんぴょんと縁石を跳ねながら伝い歩きするのに、今日はそれもせずのろのろとなるべく帰宅が遅くなるように歩くのだが、ついに家に着いてしまいました。  ところが、ところがです。パパもママも夫婦喧嘩の真っ最中で、ニコラどころではありません。どちらも自分の言い分の方が正しいと、戦争をしているんだから。  叱られずに済んだニコラは、ほっと喜んだ…と思いきや、「そんなことってあるかい…ひどいや、ひどいや…」って泣きだしてしまいました。  私は親に無視されるのに慣れていて、こんなときニコラみたいに泣きません。けれど、ひどい、ひどいと泣くニコラ少年の真っ当さに、私は笑いながらも胸を打たれてしまいました。  ニコラの遊び仲間は、パン屋や肉屋やいろいろな子が大勢いますが、その子達は、食いしん坊の子、けちん坊の子、弱虫の子、といろいろです。けれどニコラの生き生きした生活の大半は、彼らとの遊びやふれあいの中でこそ成り立っています。  周囲の人間に理想像を求める私の生き方を「それではいけない」と再検討させてくれた貴重な出会いでした。いろいろな人たちと共に暮らす大切さ、そんな当たり前の事実に気づかせてくれたのがこの本です。  ところどころにペン画の挿絵があって、両親もわんぱく仲間たちも生き生きと描かれています。 挫折……  ひまわりさんに憧れていたのに 看護学校を卒業し、続いて保健婦学校へも行って資格をとりました。無気力で相変わらず無感動な私でしたが、クラスメートとは、同じ目標に向かう同志的な連帯感があったし、看護婦の勉強よりは、社会的な視野の広がる講義内容に新鮮な感動もありました。  就職は村の保健婦という仕事を選びました。その頃、「ひまわりさん」という映画があって、主人公が生き生きと村人の中に溶け込み活動を展開する姿にひどく憧れたからです。私は社会の中で活動するかっこいい自分を夢みました。  踏み出しさえすれば容易に実現できるものと思っていたから、一歩踏み出すまでは、夢はばら色でした。 その夢のばら色が、地獄の暗色に反転するのは、一か月も要しませんでした。  一か月どころか就職の第一日から、胸が痛くなり身の置き所がないような苦悶の日々が始まったのだ。  今まで黙っていても良かった一日は、なじめない同僚、上司への挨拶、会話、諸仕事を教えてもらったり……そんな時どのように返事をしたり、応答をすればいいのか、分からないことばかりでした。  朝の挨拶は、どのようにしたらいいんだろう。  もう書類を広げ仕事体制にはいっている助役に、声掛けをしていいんだろうか、お邪魔ではないだろうか……。分からないことばかりだった。  そのうち、自分の吸う息、吐く息さえ十分出来ず、胸を締め付けられるような苦痛と恐怖が襲ってきました。 村で仕事をするには、誰にでも自分から声かけや、挨拶ができる庶民性が必要だったし、村人の平凡な日常生活に、生き生きとした関心を持たなければ事業は展開できない。と今では分かります。さらに村役場の上司や同僚に対して挨拶をする、なんてことは社会人としてのイロハのイの字なのです。そんなことすら出来ない私でした。 しかし当時は、こんなふうにきちんと私の困難を認識できたわけではない。ただおろおろし、事態に立ち向かえない己のふがいなさに打ちのめされてしまったのです。無理もない。何事にも興味を持てなかった私が、やっと生き生きと人生に立ち向かえた出鼻を叩かれたのですから。  私は駄目な人間だ!失格人間だ!  身の置き所のない不安が、私を四十六時中苛み始め、死にたい!という自殺願望が私を占領し、それでも生きていたのは、「母より先に死んではいけない。母を心細い一人にしてはいけない!」という気持ちだけでした。 今考えればこの挫折はたいしたことではない、と分かります。  虚無的で人間嫌いの当時の私には、最も避けたほうがよい進路の一つだったに過ぎないのです。  自分にも世間にも人間音痴の私がそんな判断を下せないのは当然です。  生きていく上で、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりして、自分のサイズに合った夢に訂正していくことも大切だ、なんて別の見方をその時は、持てなかったのです。  仕方なく看護婦に戻りましたが、後々までも敗残者的な後ろめたさに私は苦しめられることになりました。 遍歴のなかで……転々と 私は、いくつ職場を転々としたでしょう。総合病院5、結核療養所1、精神病院1、保健所1。まるで秋の木の葉のように、3年から4年、一番長くて十年と勤めては、移って行きました。引きこもる術を持たなかった私は、職場を異動することで、辛うじて生き延びていたともいえます。   年齢が二十代後半から、四十代前半までの一番の危機は、職業人として油の乗り切った年齢のため、現場主任とか、婦長、管理職に抜擢されることでした。最初は無用心にも、しぶしぶ任命されていましたが、内心の不安と苦しみは、想像を絶しました。四回経験したあとは、うまく逃げることを覚え、平の看護婦として働くことに成功しました。以後、暗闇の牛のように、目立たなくひっそり生きていたのです。 初めは良くて… 転職は、大変と苦労のかたまりみたいなものです。まず履歴書を書いて、職探しをして、荷物をまとめ、運送費も馬鹿にならないし、住所変更の手続き、新しい職場でのオリエンテーション、あいさつ、緊張、不慣れ、まごつき、失敗………。給料は変わるたびに、下がってゆきます。それでもこの後に述べる辛さを逃れるために、あえてせざるを得ないのです。  どこの職場でも共通していたことがあります。  どれほど、看護婦経験が長く、技術が優れても、新しい職場では、新人であり、後輩だということです。ですから就職初期は大変です。右も左も分からないので、他の人に聞き、教えを乞い、叱られたり注意されたりして、だんだん新しい職場に馴れて行くのです。大体の状況がつかめ、仕事もスムースにこなせるようになる六か月目ころから、普通だったら体も心も緊張が取れて、それなりに楽しみや働き甲斐が出てくる時期になるはずなのです。ところがその反対に、私の精神のなかには、もやもやとした苦しみや不安が雲のように現れるのです。その不安や苦しみは日を追って段々厚みを増し、全空を黒雲が覆うように私を圧倒するのです。  それからの二年半はフライパンの上の炒り豆みたいに、ただ耐えること、忍の一字に尽きました。  三年は我慢しょう、それが私の第一目標でした。三年という数字は、むかし祖母や大人たちの世間話からの耳学問です。  「辛くてもなあ、三年は辛抱せにゃ…石の上にも三年だあ…」  まるで私は、刷り込みを受けたあひる  のように、三年、三年、と自分をなだめ続けました。 毎日の仕事は、忙しいほうがまだよくて、暇だと時間の空白を埋めるのに、身が細るような居たたまれなさを味わうのです。やっと長い一日が終わり、綿のように疲れ果てた私は、聖書や仏教、古今の偉人たちの言葉を思い出しては、自分を奮い立たせていました。 汝 みずからを ともし火とせよ…  釈迦 なんじの馬車を 天につなげ  エマーソン などなど。今考えると、次の日はまた疲れ果て、別の箴言に頼らなければいけなかったのですから、偉大な言葉もトクホン並だったのですが。  私は、おのれ自身の中から、こんこんと湧き出る泉のようなものがほしかったのです。それをどのようにして獲得するのか、聖書を読んでも、座禅をしてもわからないのです。  この不安や苦しみは、後述の“再生への取り組みを”しているうちに自然と解消されました。でも、それはずーと後の話です。

異業種への転職を考える

人のいない所で暮らしたい、嫌いな人間とおさらばしたいと痛切に思いました。  無人島や、火星はどうだろうか。確かに人はいない。けれど私が住めるような所なら他人だって移り住んでくるだろうし、それよりも生活はどうなるのだろう。  移り住んだその日から、電気は必要だし、食べ物も必要だ。トイレは?……など。蛇も出るし、蛾も飛んでくる。台風の時は、住んでいる小屋も吹っ飛んでしまうだろう。あーあ、私にはそれらに対処できる力はない。私には、とうてい女ロビンソン・クルーソーにはなれそうもありません。  しぶしぶと私は、自分が社会の協同作業の恩恵を受けなければ生きられない、と認めました。  逃げ道をふさがれた私は、この世界が原爆で吹っ飛んでしまえばいい、とさえ思うようになったのです。どこかのテロ組織より過激な世界消滅を願う一方、私のような人間嫌い、人付き合いが不得手人間でも出来る仕事はないかと、熱心に探しもしました。  私が身に付けた看護婦という職業も、同僚やその他の職種の人たちと、結構いろいろなやりとりをしなければいけない。毎日が疲れと自己嫌悪でくたくただった。  終日だれとも口をきかず、ただ黙々と自分の仕事だけして、よい仕事をしたとほめられ、生活費も稼げるような仕事はないものかと、他人が聞いたら虫がいい、と笑われそうな願いを持ちました。そんな条件を満たすのは、一人コツコツやっている、職人的な要素の職種であるように思えた。 求めよさらば与えられん。私の要望を満たすような、美味しい話が見つかったのです。  ある日の新聞広告に『一年で洋裁熟練工になれる! 授業料なし!』というような記事が載っているではないか。  今は、各種サイズがそろった既製服が主流になっていますが、その当時(昭和30年代)は、自分でミシンを踏んで作るか、それとも洋服の仕立屋さんに頼むとか、素人で洋裁の巧いひとに頼むなどのいずれかでした。素人でも腕のたつ人は、羨ましいほどの稼ぎをしていました。けれど、洋裁は一人前になるのに十年はかかる、といわれていたので、そんな短期間で一人前になれるなんて夢のようです。半信半疑でしたがとにかく応募しました。  無事パスしたのは、私以外にも20歳代の女性が十人ほどでした。1年間の生活費は、貯金と失業保険で何とか賄えそうだとめども立ちました。 新宿つのはづの角を東に曲がり、まっすぐ行った所にそこはありました。表通りから20メートルほど引っ込んだ所に、驚くような高級洋服店があって、中に入ると、当時としては天国のようなふかふかした美しい絨毯が敷き詰めてあります。壁にはイタリア直輸入の高級布地が滝のように流れ、一歩踏み入れただけで、ほこりっぽい外とは異種の世界だと感じられます。  ここは、フリーの客は扱つかわず、固定客のみで成り立っていると聞き、商売やっていかれるのかしら、といらぬ老婆心を持ちましたが、この店のひいき客は、季節ごとに一人の客が十から二十着くらい自分用の洋服の仕立てを注文するのだ、と聞きもうもうびっくり仰天でした。戦後十余年立ったとは言え、日本はまだまだ貧しくて、洋服一着買うにも、さんざんためらい、ラーメン程度の外食さえ、月に一度がやっと、という私の生活水準だったから、ため息がでました。私は自分を基準にして日本中が貧しいと単純に思い込んでいたのですが、いろいろな階層があるらしいと、この時初めて知ったのです。 ここの教育や指導は、とてもユニークなもので、実技指導を主とし、多くの洋裁学院がやっている、型紙の取り方とか、理論はまったくやりません。  洋裁店と同じ敷地内の建物の二階が教室に改造され、学院長兼教師の店主が私たちを指導してくれました。頭の禿げかかった小柄な四十年配の男性です。  学院の方針とか、カリキュラムの説明はいっさいなしで、初日から私たち十人ほどの生徒は、一メートル大の白布を渡され、仮縫いの時の運針を、午前九時から午後五時までやらされたのです。仮縫いの時の糸目は、丁度無線通信のトン トン ツ――――に似ていると思いました。 その次はポケットの各種に挑戦です。貼り付けポケット、玉ぶちのポケット、蓋つきポケット、など一枚の布に次々作ってゆきます。  ボタンホールのいろいろもやりました。これは殊に熟練が必要で、紳士服では、専門の職人さんに発注するということです。  芯付けのハ刺しは、下になった表布地を左手四本の指で微妙にずらせながらハの字ハの字に刺してゆく。他の人は上手にどんどんやるのに、私は不器用でのろい。にもかかわらず、性に合うのかつまらないとも思わず、しこしこやっていました。 春に入学し、夏に入る頃には、基本訓練がおわり、スカートのミシン掛けをするまでに進みました。教材はすべて、注文服でイタリア製の布地を渡されたのです。  最初はシンプルなタイトスカートでしたが、縫ってみると、先生はなかなか合格のОKを出してくれません。まっすぐ縫ったつもりのミシン目は、透かしてみると微妙に凸凹し、布地の表に変なひずみを作るのです。  何度でもやり直しです。布地に穴があかないように、ミシン目を解きながらだんだん最初の意気込みが萎えてきました。  さらにもう一つの悪条件が加わったのです。梅雨が終わり私たちの2階の教室に、四方の平屋の屋根の反射がもろに集中するのです。  まるで凹レンズの焦点になったように熱気が集まってくる。さらに0.1ミリずれたミシン縫いのやり直しが、暗くなるまで続くのです。たかが、スカートの脇線一本をきちんと縫うのがこんなに難しいとは。商売の厳しさをつくづく思い知らされました。 東京は未曾有の水飢饉で、水洗トイレを使っても流す水が出ません。クラスの誰かが、いい知恵を出しました。50メートルほど離れたビルのトイレに駆け込もうというのです。私たちは数人が連れ立って、ビルに駆け込み山水のような豊かな、ほとばしりに感心しながら思う存分使わせてもらいました。  熱気と作業の難しさに嫌気がさして、一人ずつ辞めていきました。私も三か月辛抱したが結局やめました。あの酷暑がなければ、辛抱したかも知れず、その後、既製服時代到来の波に翻弄されるようになっていたかもしれません。 たった三か月でしたが、私はその後、洋服もスーツも自分のもの程度は作れるようになりました。型紙は文化式とかドレメ式を応用し、かなりいいかげんな製図でしたが、仮縫い補正をきちんとすると、かなりのものが出来たのです。  部分、部分を徹底的に攻略し、マスターしてゆく修行は実を結んだのです。  一部の生徒たちは「儲け主義だ……」と学院側の方針を怒っていましたが、私はあの時の指導法は、お店も生徒も得するように考えた、面白いなかなかの方法だと思いました。  洋裁では実を結ばなかったものの、ずーっと後、意外なところでこの時の体験が生きてきたのです。私は、さまざまな出会いや失敗を重ね、心の旅をさ迷ったのですが、「人間大嫌い」から「人間好き」に転換をしてゆくための方法を模索していくとき、役立ってくれた地下伏流水の役割のひとつになったような気がします。 転職も生活費を稼ぎ出すほどの技能を習得するのは、並大抵なことではない、と思い知らされ、しぶしぶまた看護婦の仕事に戻っていきました。 あちらこちらと遍歴している間に、さまざまな事柄に出会いました。  当時の私は、ちょうどカメラのレンズに、九割覆いを掛けた状態に似ていました。世の中も嫌、人も、生きているのも嫌! そんな精神状態でしたが、少し開けたカーテンから、いくつかの印象に残る出来事や、人々が私の心の中に入って来ました。少しだったにもかかわらず、その景色が、のちの再生や青空の下へと導く土壌のひとつになっていった、とも思えますので、そのうちのほんの少しをお話いたします。  気が向かなかったら、ここは飛ばしてもかまいません。 東京タワーのすぐそばにあったその病院は、病床数五百前後、広い敷地に幾つかの病棟が整然と並び、タワー寄りの北側には、都から委託された三階建ての民生病棟がありました。  今から四、五十年も前、糖尿病は金持ち病と言われるほど稀だったのですが、その病院には、糖尿病については全国一と称された医師がおりました。そこは、当時珍しかった教育入院というシステムを実施し、患者グループを組織し、新聞も定期的に出していました。  私が配属された内科病棟が、その教育入院を受け入れていて、患者が自己管理できるように毎食後の尿糖検査や、毎日の昼食は、患者、医師、栄養士が参加した合同の食事会できちんと教えるシステムをとっていました。今は、どの総合病院も、糖尿病といえば栄養士さんが食餌療法について、教えてくれます。しかし、この病院ほど徹底的に患者が自立して病と闘える力をつくることに努力し、教育しているところは、どれほどあるのでしょうか。とても、印象に残りました。 看護婦は二百人ほどいたでしょうか。看護婦寮は、口の字型の二階建てで、各部屋は二人部屋か、四人部屋でした。建物の真ん中は、洗濯物の干し場です。たんぽぽが石畳みの合間に一面咲き、私は、東京のど真ん中の田舎っぽい風景にびっくりしました。田舎っぽさは、それ以外にもありました。寮の食堂には、賄いのおばさんが三人いましたが、ふだんは粗末な食事ですが、たまに、えっというようなご馳走がでました。「今日は何の日?」と誰かが聞くと、「そこのお稲荷さんのお祭りなんだって……」誰かがおどけたように答えました。散歩がてら、そのお稲荷さんを覗いてみました。三田の大学の正門へ行く途中、右側の一寸引っ込んだ所に、赤い鳥居があって、お狐さんが小さな祠に納まっていました。  一見非情な大都会の中に、実に人間っぽい空き地みたいなところが、あちこちあったのがとても印象に残っています。 民生病棟の三階は結核病棟になっていて、七十人ほどの患者が入っていました。ここで驚いたのは、すでに過去の病気とされていた結核患者が厳然といたことです。それもストマイ、パス、ヒドラなどなどの特効薬がぜんぜん効かない耐性結核菌をいっぱい持った患者たちでした。彼ら、彼女らは一見元気でした。しかし「私たちは、目に見えない檻に一生囲まれているようなものなのよ……」若い女性が言いました。静かな物言いの中に、ここへくるまでに、どれほどの慟哭や情念との決別があったかを思わせるものがあって、私は胸がつかれ、言葉が何も出ませんでした。

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