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体験記・萬葉の心・ゆっくりとでも前へ進みます

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「ゆっくりとでも前へ進みます」

著者:萬葉の心(女性) 


 私の不登校は、中1の1学期、4月からでした。朝、起きられなくなることから始まります。腹痛、だるさなどがよく出て、内科の先生にかかり、検査をしてもらったところ、原因がつかめずに終わったので、別の病院を紹介してもらいました。“神経科”と呼ばれる場です。 その当時、突発的に不安に襲われて、落ち着いた状態を保てないことがあったりしました。服薬、という形での治療になりました。腹痛が無ければ通えると信じ込んでいました。診察、それに加えて週1回のカウンセリングを受けました。

 親の協力が不可欠にもかかわらず、父親は1度きりしかカウンセリングに来ないようでした。子供(自分)が不登校になるのに自分(父)は無関係だと主張していましたが、父は大きく影響していたのです。

 どこの家庭も、たいていの父親は「無関係だ、お前(母親)の育て方に問題があったんだ!」と紋切りで母を責めているようですが、実は、父親自身も大きく子供に影響を与えているものなのです。

 私のケースでは、母親がひたすら父親につくす、面倒を見る、理想化する、「お父さんがこの世界の中で一番エライの」と刷り込まれました。そして、父親はいつでも、自分のことを、「俺は何でもできるんだ」という巨大で肥大化した自己万能感や、誇大感を私に植えつけてきました。

 例えば、近所で売っていない珍しい物を買ってきては、「これは特別だ、皆欲しがるぞ。珍しいんだぞ」と些細な文具をあたかも世界に一つしかないものを手に入れたんだ、持っているんだ、それをお前(私)にやるんだ、と欲しくもないその物を私は受け取っていました。

 そして、自分(父親)が何か一つ子供の疑問に答えることが出来ると、「俺は大先生だ」とか「俺は大臣だ」とひとつできるだけで、社会的地位の高い者に同化していました。

 そんな父親に影響されない子供が、この世にいないはずがありません。父親の誇大自己、ナルシシズムを一身に注がれて出来上がったのがその時の私でした。

 パッ!と目を引くモノ、華やかなモノ、有名なモノ、限界の無い自己肥大・・・、現実の己(私)と父親が要求し続ける己、それに応えきれなくなった私・・・そう、とっくに限界は来ていたのに、無理をした。すなわち、「イヤだ!」と父親を拒絶できない私がいました。

 全く父親に逆らわない、父親の要求を察知して先に先に要求に応え続けていました・・・。その時に、うすうす感じていたのでしょう。私は愛情を注いでほしかった、私は私、そのままの私、例えばテストで満点が取れる、走りが速い、委員になる、人気のある、そういった後から加わる“付加価値”のついた私だから愛されるのだと信じていました。
 父親を喜ばせようと、無意識までもが必死でした。そして、小学校卒業の晩、この二人(父・母)の会話が聞えてきたのです・・・。「○○(私の名前)は思い通りの子供に育ったね」・・・、私のことをいったい、何だと思っていたのでしょうか・・・?

 子供は白い布でもねん土でも、真白なキャンバスでもありません! 子供はこどもなのです。親の理想を押しつける行為は、こどもを、布やねん土や、キャンバスに変えて、親自身の描けなかった己の夢、欲望(よく言えば希望)、等を押しつける行為に他ならないのです。

 思い通りに育ったから、可愛い(?)では、思い通りに育たなければ、谷へ、クレバスに突き落とすのか? 暴力を浴びせるのか? 毎日、せっかんを加え、何が何でも、自分のモノ扱いするのか? 子供はこども、親の物ではないのにもかかわらず、生まれた時より多大な、無理な、偏った力のある片親の思いを一身に受けて育つ・・・。

 私は女ですが、父親と同化してしまうことが、非常に多くありました。小学5年になって、クラス替えの時、クラスの女の子が私の性別がようやく解ったと言って来たことがあります。父親の価値は、私が女であることすら考えてないと言わないばかり。女が男であること匂わせることをしょっ中、吐いていました。だからこそ、「女は価値がない」からこそ、付加価値を付けろ! となっていたのでしょう。

 一般的に、同性の親にあこがれるはずが、父親みたいになりたい・・・と思う。この時点、すなわち幼少期よりこの問題を抱えていたことになります。保育園が嫌でイヤで仕方なかったのに、「お父さんが喜ぶから」無理矢理通い、小学校で無理の連続。

 そして中1で精神つきはてる、という流れです。中学3年間、ほとんど通っていません。スクールカウンセラーに会いに通ったくらいですが、スクールカウンセラーは、何一つ、心理の専門の知識を持っていませんでした。カイロプラクティックにも通い、紹介で寺の住職の方とも試しましたが、カウンセラーと真逆のことを言ってきました。もちろん、正しいのはカウンセラー(臨床心理士)や、医師の見解です。

 近所のオバちゃんや教師、スクールカウンセラーは何の責任も持たず、言いたいことを言ってきますので、無視するのが一番です。ネット上もウソのオンパレード。無責任人間まみれです。

 県内にある、不登校の子供が通う「青年の家」(公のもの)にも通いましたが、追い出されました。理由は“先生を独占するから”ということでした。親でなく、医師でなく、カウンセラーじゃない大人は、そこの先生だけです。

 話したい、と思っても「勉強! 勉強!」と追い立ててきます。故、図書館に逃げ込みました。そんなことをしている内に3年になり、進路を決めろと学校に言われ、県内公立の定時制に入りました。授業では開いた口がふさがりません。中学1年からの授業でした。

 そして担任が失礼極まりない男でした。「お腹痛ーい」ともらせば、「生理か?」とか言いましたし、食事中、イキナリ「太った?」とか言うようなのが、県立、しかも定時制の教員です。あとはパソコンで水着姿の女性の写真を出しては(別の)娘を持つ教員が、「そこに○○(私の名前)の顔写真貼ったらどうなるかな」等。極めつけは吐くにはこうしたらいいかと言ってきた教員もいました。これを機に、過食、拒食、オウト・・・、そう、摂食障害が始まったのです・・・。
 勉強は楽勝でした、けれど、精神の天秤はまたも崩れたのです。薬の服用を怠ったのも原因でした。我慢の限界です。「こんな授業じゃ足りんワー!!」と同級生と上手くいかない、まだ父親の影響の色濃い私です。適応不可能。しかし、アルバイトは続いていました。そしてきっぱり高校を退学。高2の秋でした。

 さて、どうしよう? 母親が某大手大検予備校の広告を持って来て一緒に見学に行きましたが、そこを蹴り、都内の予備校に通い大検を獲得しました。その予備校はとても落ちついていて、講師の人達が本当に大人で初めて信頼できる大人に会った場所かもしれません。
 そして大学進学。県内の私大、通信制の大学でした。一番楽しかった学校生活でした。しかし病はつきもの。1年留年して3年次退学で終わりました。

 そうだ、大学の教授がこんなこと、言ってたっけ。「どこの大学を出ているかは、どこの中学を出ているのかと同じだ」。さらに手塚治虫がBLACK・JACKの中で、「ほら、見てみろ。この群衆の中で誰かどこの大学を出たか、なんて分からないだろ、問題は学校を出た後だと思うがな」。

 私は単に学ぶことが楽しい作業でもあり、たいくつな作業でもあることは分かっているつもりだ、偏差値いくつの大学出身だからというのは価値の内に入らないと思う。不登校、引きこもりが長びけば長びくだけ年を重ねる、加齢してゆく・・・。加齢してしまったのであれば、きっぱり学校に見切りをつけて、ちょっとアルバイトから始めよう。無理に大学に行く必要はない。その“プライド(?)”を捨て社会に参加することで、今まで味わえなかった“世の中”を感じられる。

 では私の話。要は私は病気持ちです。精神病の部類に入ります。ヒントはヴィヴィアン・リーです。投薬、カウンセリング共に12年、実に人生の半分ずっと神経科にかかっています。現在、精神障害者の社会復帰施設に住み、自立しようと1月よりアルバイトを始めたところです。精神面での柔軟さ、肉体面でのタフさを蓄えて確実に、ゆっくりとでも前に進みます。では・・・。
 (完)

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